2008年8月1日金曜日

第31回「陰謀を通しての訓練」 使徒23章1-24節

いよいよ「人生の訓練シリーズ」も最終回となりました。最終回のテーマは「陰謀を通しての訓練」です。陰謀と言うと少し大げさかもしれませんが、小さな悪意にさらされてしまうことは誰にでもあることでしょう?しかも悪意ある人々が裁かれず、「悠々と暮らしている」のを見ると、思わず「どうして?」と思ってしまいます。そんな時、私達は、どんな訓練を通らされているのでしょう?

パウロには、もともと一つの「切なる願い」がありました。それは「何とかして、道が開かれて、あなた方のところに行けること」でした。彼はローマに行き、そこにいる兄弟姉妹(クリスチャン)を励まし、強め、自分自身も励ましを受け、ローマにいるより多くの人々に「福音を伝えたかった」のです(ロマ1:9-15)。それはどれもこれも全て良い動機でした。でもなぜか、その道は、妨げられてたのです。

どうしてパウロの願いは妨げられていたのでしょう?私達は「良い動機で願えば、主はかなえてくださり、そうでなければかなえられない」と単純に考えます。確かに聖書には「願っても受けられないのは、悪い動機で願うからです(ヤコ4:3)」と書かれています。でも実際はもっと複雑なのではないでしょうか?というのは、正しい動機で願っても、激しい陰謀にさらされされたり、妨げられてしまうことはあるし、逆に、悪意ある陰謀が、良い結果を生み出すことだってあるのです。

創世記のヨセフを思い出してください。彼は、兄弟によって外国の隊商に売られてしまいました。でも結果的にその陰謀を通して、彼はエジプトの大臣となり、ヤコブの子孫(イスラエル)を救ったのです。後にヨセフは言いました。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして多くの人々を生かしておくためでした(創世50:20)」と。

パウロにも似たようなことが起こりました。彼はユダヤ人の悪意によって捕えられ、不正な裁判にかけられ、囚人とされてしまいました。そしてそれ以降も、パウロは様々な悪意と策略に翻弄されますが、不思議なことに、陰謀が激しくなればなるほど、パウロは確実にローマへと導かれていくのでした。言い方を変えれば、福音は、陰謀を通して、ローマへと運ばれ、世界へと広がって行ったのです。

つまりどういうことでしょうか?それは「神様のご計画は、人の悪意を超えて、前進している」「神様は悪意でさえも、ご自身のご計画のための用いることができる」ということです。一時的に「悪者は悠々と暮らしている」様に見えるかもしれません。しかし、そんな中にあっても、主のご計画は着実に進行しているのです。

また神様は、陰謀を通して、私達を訓練されます。陰謀の中で私達は必死に祈る様になります。そして悩みの炉で練り聖められ、謙遜にされ、自分の願いがかなえられても、決して「自分の力でそれをやった」とは言わず、主に栄光を帰するようになります。エルサレムで「勇気を出しなさい、あなたはローマでも」と言われた時のパウロも、自分の無力を痛感し、徹底的に砕かれていた時でした。反対に言えば、砕かれたその時こそが、ローマ行きへの本当の「時」だったのです。

人の悪意や陰謀は放っておきなさい。神様は泥水からも綺麗な花を咲かせることのできるお方です。あなたが自分を見失わなければ、全ては益へと変えられるのです。◆あなたはただ謙遜に、勇気を失わず、神と人とを愛し続けなさい。そしてあなたの主であるイエス・キリストを、どこにおいても立派に証し続けなさい。

神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
ローマ8章28節

2008年6月22日日曜日

第30回「わきまえる訓練」 民数記16章1-35節

今日のテーマは「わきまえ」です。「わきまえ」の意味を辞書で引くと「自分の置かれた立場から言って、すべき事とすべきでない事とのけじめを心得ること」と説明されています。ダビデは詩篇の中で、「わきまえのない状態」のことを「獣のよう」と表現しています。そう考えると「わきまえる訓練」とは、クリスチャンとして以前に、「人として」大切な訓練であることであることが分かります。

コラをはじめとする、民の代表250人は、この「わきまえ」を失ってしまいました。彼らは「モーセとアロンは分を超えている」とか「私達の上に君臨し、私たちを支配しようとしている」とか、色々と難癖をつけて、本来たくことを許されていない「香」を、自分達の手でたこうとしたのです。「モーセとアロンばかりが特権階級にいるのはおかしい」「本来平等のはずじゃないか」と言うわけです。そうして結局「すべきことと、すべきでないことのケジメを」失ってしまったのです。

その根本にあったのは「ねたみ」でした。もっともらしい理由を並べつつも、つまりは、モーセとアロンの「立場」が羨ましくてしょうがなかったのです。そして「自分にだって出来る」「なぜダメなんだ」と不満に思ったのです。これは十戒の「むさぼり」の罪です。モーセはそのことを見抜き「あなた方には既に大切な役割が与えられているのに、何が不足なのですか?祭司の職まで要求するのですか」と言いました。しかし彼らは悔い改めず、その身にさばきを招いてしまったのです。

似たような議論は今日も存在します。「牧師だけが特権階級にいるのはおかしい」「牧師は、我々の上に君臨して私たちを支配しようとしている」「説教も聖餐式の司式も、もっと信徒に任せるべきだ」と。そうして「行き過ぎた万人祭司」を唱えるのです。しかし聖書は、そんなことを教えてはいません。あくまで主の前における「存在としての平等」を教えつつも、「賜物」と「召命」における「違い」は尊重し、従うべき人には従いなさいと(Ⅰペテ2:13,5:5)教えているのです。

激しい批判にさらされた時モーセの態度は立派でした。彼は自分を吊るし上げる人々の前で「ひれ伏し(4)」怒ってもその感情をぶちまけず、まず「主に申し上げ(15)」、決して威張らず、ひねくれず、危険も顧みず必死に「とりなして(22,45)」いるのです。彼こそ本当の意味で「わきまえのある人」ではないでしょうか?

つまり「わきまえる」とはどういうことでしょう。一言でいえば「思うべき限度を越えて思い上がらない」ことです。それは「神様の御前で」です。「神様を恐れることこそ知識のはじまり(箴1:7)」です。それが出来ず自分の欲望のままに生きる人を「獣」と呼ぶのです。また「人に対して」もです。何にでも口を挟もうとするのではなく、謙遜に「人を自分よりまさっていると思う」のです。そういった自覚が、わきまえのある信仰者と、落ちついた教会・社会生活を生み出すのです。

あなたはいつの間にか「獣」になっていませんか?気付かないうちに、神の前にも、人の前にも「自分」が出すぎて、わきまえのない人になっていませんか?◆かといって「引っ込むこと」が「わきまえること」でもありません。自分に与えらた賜物に感謝し、その賜物に忠実に生きることが「わきまえの訓練」なのです。

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、
主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
詩篇19篇7節

兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、
尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
ローマ12章10節

第29回「疑いについての訓練」 マタイ11章1-6節

今日のテーマは「疑い」です。一口に「疑い」といっても、それは二つに分類できます。一つは、良く知りもせず、求めもしない人が、頭ごなしに決め付けるところの疑いです。でもそれは本当の「疑い」ではありません。信じたこともない人に、どうして「疑う」ことが出来るでしょうか?それはむしろ「先入観」や「偏見」と言ったほうが適切だと思います。今日学びたいのは、もう一つの「疑い」です。それは本気で信じ、求めた人とのみが感じるところの「疑い」です。言い換えれば「神に対する真摯な問い」とも言うことができるのではないでしょうか。

イエス様は十字架上でこう祈られました。「わが神、わが神、どうしたわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)」と。ある人は誤解し「イエスは『神の子』ではなかったから最期に神を疑ったんだ」と言います。しかしそれは間違いです。イエス様は父なる神様と太い絆で結ばれ、「ひとつ」であったからこそ、十字架上で私たちの罪を背負い、父との断絶を味わった時、初めてこのように「真摯に問うた」のです。根底にあったのは「不信仰」ではなく「揺るがない愛」でした。

しかしトマスの場合は違っていました。彼は「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません(ヨハネ20:25)」と言いました。これは明らかに、彼の不信仰から生まれた疑いでした。ですからイエス様も、彼にははっきり「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ずに信じる者は幸いです(27-29)」と言われたのです。

バプテスマのヨハネの感じた「疑い」はどちらだったのでしょう?彼は弟子を通じてこう訊ねました。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも別の方を待つべきでしょうか(3)」。ある人は長い幽閉生活の中で、ヨハネは不信仰に陥ったと言います。でもそんな簡単な言葉では片付けられません。彼は「キリストこそ『世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)』です」との確信を持ち続けていました。だからこそ「いつそれが明らかになるのですか」と「真摯に問うて」いたのです。

彼の問にイエス様は何と答えたでしょうか。イエス様はただ一言だけこう答えられました。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい(4)」と。それで十分だったのです。なぜなら「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、…死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられている」その有様は、イザヤが預言した通りだったからです(35:5-6)。

イエス様は、ヨハネに「確信を捨てず、御言葉に留まり続けなさい」とのサインを送られたのです。そしてヨハネはそれをキャッチし、信仰に留まり続けたのです。脅されても「死に至るまで忠実(黙示2:10)」でした。ある人はヨハネの悲惨な最期を見て「犬死だった」と評するかもしれません。しかしイエス様のために「道をまっすぐに整える(マルコ1:2)」使命に徹した彼の人生は、最高に幸せだったのではないでしょか?彼は天において間違いなく「いのちの冠」をいただいているのです(11~)!

あなたは疑いを感じていますか?だとすれば、その「疑い」は何を見ても何を聞いても解決されることはないでしょう。結局心を裸にし真摯に神様に問いかけ、御言葉に留まり続けるしかないのです。そうすることによって私達はジメジメした疑いの沼から救われるのです。疑いは更なる疑いしか生みません。しかし信仰は勇気と希望を生み出すのです!

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
(ヘブル10章35-36節)

第28回「権力に対する訓練」 マタイ20章17-28節

「ロード・オブ・ザ・リング」という映画を知っているだろうか?一つの指輪を巡る話なのだが、その指輪を手に入れた者は、世界を支配できる「力」を手に入れることができるのである。しかしその指輪を手に入れたのは、そんな野望とは全く関係のない、純真無垢な一人の少年(フロド)であった。でも彼は、その指輪を手に入れた瞬間から、だんだんと心を蝕まれ、芽生える野心と正義感の間で、深い葛藤を味わうことになる。私はその指輪と「権力」が非常に似ていると思う。

あなたは「権力」など要らないと考えるでしょうか?もしそうなら、まだまだあなたは自分のことを(いや人間そのものを)知らな過ぎる。「出るくいは打たれる日本」ではそういう声も多いかもしれませんが「権力への渇望」は私たちが思う以上に根深いものです。求めていないようで、喉から手が出るほど求めており、いざその権力を手にすると、どんな小さな権力でも、私達はバランスを失ってしまう。

その点、ヤコブとヨハネ、彼らの母は正直すぎました。お母さんは「御国で、息子のひとりが右、もうひとりが左に座る」ことを願いました。つまり「天国での№1と№2」を願ったのです。しかし彼らは自分達が何を求めているのか分かっていませんでした。彼らはイエス様が言われた「人の子がその栄光の座に着く時、あなたがたは十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばく(19:28)」との言葉を勘違いし「地上おける王国」の「主要大臣ポスト」を願っていたのです。

それを聞いて他の10人は腹を立てました。なぜでしょうか?実は彼らも同じことを願っていたからです(18:1-6)。彼らの間には普段から出世争いが渦巻いており、それが隠せないところまでヒートアップしていました。何ということでしょうか!イエス様はたった今「3度目の受難告知」をされたばかりなのです(18-19)。それなのに彼らは「自分の出世」のことで頭がいっぱいで喧嘩をしていたのです。

そんな彼らにイエス様はやさしく語られました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい(26-27)」と。イエス様は、彼らの「偉くなりたい」「人の先に立ちたい」という願いを頭ごなしに否定されず、そういう願望が人間の内にあることを認めた上で、その願いを良いことのために用いなさいと教えられました。つまり「リーダーになるな」ではなく、「立派なリーダーになりなさい」と教えられたのです。そこが単なる禁欲主義と違う点です。

エドマン博士はこう指摘します。「私達の大部分の者は『従う者』である。しかしながら、ある人々は学校や教会、職場や社会において『指導的な立場』にならなければならない。それ自体は悪いことではない。ただ彼らには、与えられた権力を自己の利益のために用いず、決して威張らず、人を支配しないことが求められる。むしろ愛と謙遜な心で、指導の任につかなければならない」(291-292意訳)

立派なリーダーとはどのような存在でしょうか。その完全な模範はイエス様です。イエス様は「仕えるものの姿をとり、ご自分を無にし、実に十字架の死にまでも従われ」ました(ピリピ2章)。◆そのような生き方は、リーダーだけに求められるものではありません。イエス様は「私が足を洗ったのですから、あなた方も互いに足を洗い合うべきです」と教えられました(ヨハネ13:14)。キリストの共同体(教会)は「仕えあう共同体」なのです!

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、
みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、
あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、
仕えるためであるのと同じです。
マタイ20章26-28節(要約)

第27回「逸脱に対する訓練」 ルカ10:41-42 ピリピ3:13-14

本日のテーマは「逸脱に対する訓練」です。あまり聞きなれない言葉ですが「逸脱」の意味を国語辞典で調べると「本筋や決まった範囲からそれること」とあります。つまり今日の学びは「的外れな人生を送らないための訓練」でもあるのです。ご存知のように「罪」の語源「ハマルティア」の意味は「的外れ」です。そう考えると、今日の訓練が、いかに大切であるかお分かりいただけると思います。私達はどのようにして「人生の本筋」を守り通すことが出来るのでしょうか…?

まず大切なのは、「二の次にすべきこと」に、固執しすぎないこと、です。これが結構難しいのです。どうでも良いことや、くだらないことであったら、固執することもないでしょう。しかし、くだらなくはなくても、「二番目ぐらいに大切なこと」には、結構、固執しすぎてしまうことがあるのではないでしょうか。少し回りくどい表現ですが、その分かりやすい例として、マルタを上げることが出来ます。

マルタは、イエス様をもてなすために忙しくしていました。それ自体は良いことでしたが、「最も大切な第一とすべきこと」ではありませんでした。むしろ「どうしても必要なただ一つのこと」を選択したのは、妹のマリヤだったのです。彼女はイエス様の足元にすわり、ただ御言葉に聞き入っていました。マルタは忙しくするあまり、そちらをおろそかにし、妹からそれを取り上げようとしていたのです。

エドマン博士はこう指摘します。「イエス様はもちろん、マルタの善意をよく理解しておられました。しかしイエス様は、おかずの数は減らしてもよいから、永遠のことについて語り合いたい、そして御言葉に耳を傾けて欲しいと願われていたのです。私達も同じような間違いを犯していないでしょうか。『良いこと(good)』にこだわりすぎて『最も大切なこと(best)』をおろそかにしていないでしょうか。『どうしても必要なことは、ただ一つ』です。それを見失ってはいけません。」

またパウロは言いました。「私はただこの一事に励んでいます。すなわち後ろのものを忘れ…」と。イザヤ書にも「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よわたしは新しい事をする。今やそれは芽生えている(43:18-19)」とあります。それがどんな過去であれ、過去にこだわってしまうとき、私達は本来の目標を見失い、いつの間にか「わき道」へと迷い込んでしまうことがあるのです。試してみてください。首から上だけは後ろを向きながら、まっすぐ走れますか?

大切なのは、しっかり前を向き「目標を目ざして一心に走ること」です。私達にはまだ「先」があります。過去を振り返り哀愁にひたっている暇はありません。私たちが目指しているのは、キリストご自身から与えられるところの「栄冠」なのです。それは試練に耐え抜き、良しと認められた人にだけ与えられるのです(ヤコブ1:12)。先に天に召された主にある兄弟姉妹も、私たちが悲しみにくれるより、立派に信仰の道を走り、栄冠をかむって、御国にて再会することを望んでいるでしょう。

パウロとマリヤには、共通点がありました。それは彼らが、今なすべき「ただ一つのこと」を、しっかり心得ていたということです。そして彼らは、そこから目を離さず、「ただその一事」に励んでいたのです。◆あなたはどうでしょうか?あなたの人生は、的を射た人生でしょうか?それとも、的外れな人生でしょうか?◆あなたの心を占領しているそのことは、今、本当になすべきことでしょうか?永遠の前に、どれほど価値のあることでしょうか?◆どうか私達の人生が、逸脱ではなく、栄冠へと続く人生でありますように。

「兄弟たちよ。私は、ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、
目標を目ざして一心に走っているのです。」
ピリピ3章13-14節(要約)

2008年5月11日日曜日

第26回「出世についての訓練」 歴代誌26章1-23節

本日のテーマは「出世についての訓練」です。ある方は「私は絶対に大丈夫。だいたい出世になんて『興味』も『縁』もない」と感じておられるかもしれません。しかし本当に大丈夫でしょうか?大げさなことではないのです。人と比べて、少しばかり目立つ立場、少しばかり影響力のある立場、少しばかり裕福な立場におかれるだけで、私達もすぐに、ウジヤと同じような失敗を犯してしまうのです…。

若い頃のウジヤは、確かに素晴らしい王でした。16歳で王とされた彼は、まだ自信がなかったのか、とにかく必死に、主によりすがりました。彼は、「主の目にかなうことを行な(4)い、主も彼を助けられ(75)、彼は異邦人との戦いにことごとく勝利を収めることができました。また、その他にも、彼は農業を振興し、多くの水ためを掘り、最強の軍隊を組織し、新しい兵器も考案し、国を強くしました。その結果、彼の名はついにエジプトにまで響き渡ることになったのです(8-15)。

しかし成功の絶頂にあったとき、彼の人生の歯車が狂い始めました。聖書によると「彼の心は高ぶり、身に滅びを招いた(16)」のです。具体的にいうと「本来、自分のするべき事ではない(18)」香をたくという「聖なる奉仕」にまで首を突っ込み、そのことを祭司アザルヤに注意されても、悔い改めるどころか、更に激しい怒りを燃やし、食って掛かったのです(19)。するとどうしたことでしょうか?彼の額に「重い皮膚病(新改訳:らい病)」が現れ、彼は悲惨な最期を遂げたのです。

何が間違っていたのでしょう。きっとウジヤは「自分の力を過信した」のでしょう。彼にも、生まれ持った「賜物」や「リーダーシップ」はあったと思います。しかしそれらは全て「主の助け」があって(7,15)、「なんぼのもの」だったのです。それなのに彼は、何を勘違いしたのか「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ(イザヤ10:13)」と考えてしまったのです。そしてついには、神の領域に属する、聖なる奉仕にまで、土足で踏み込んでしまいました。

いったい若い頃の彼はどこに行ってしまったのでしょうか。エドマン博士はこう書いています。「キリスト者に対する真のテストは、倒れそうになるほど労している時にではなく、むしろ高い地位に上り、人々から誉めそやされる頃にやってくる。多くの信仰者は、貧しさには耐えることができても、繁栄につまずいてしまう。労働には耐え得ても、豊かさには耐えられない。軽んじられても必死に頑張るが、いったん成功し、ちやほやされると傲慢になってしまう。そして、ついには自分を滅ぼしてしまうのだ(p276~要約)」。本当に恐ろしいのは出世(成功)なのです。

勘違いしてはいけません。出世(成功)そのものがいけない、のではないのです。もし、そういうことを本気で叫んでいる人がいるならば、きっとその人は他人の成功を「羨んでいる」のでしょう。「嫉妬とは、人が持っているものを羨むことであり、同時に人が持たないことを喜ぶ感情」です。騙されてはいけません。もっともらしい正義の背後には、人間の「最も汚い感情」が隠れていることが多いのです。

私たちが学ぶべき「出世についての訓練」は、次のことです。◆第一に、出世できなくても、決して卑屈にならないことです。努力しても与えられないのは、今のあなたには必要ないからです。しかし努力することをやめてはいけません。◆二番目に、出世できても、決して天狗にならないことです。それを与えてくださったのは「神様」です。「与えてくださった方への感謝」を忘れてしまうとき、その成功が「災い」となってしまうのです。

「乏しいからこう言うのではありません。
私は、どんな境遇にあっても
満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、
豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、
富むことにも乏しいことにも、
あらゆる境遇に対処する
秘訣を心得ています。」
(ピリピ4章11-12節)

第25回「幻滅に対する訓練」 ルカ24章1-35節

本日の学びは「幻滅に対する訓練」です。私達は、もう既に「遅延」「絶望」「病気」と学んできました。それらも広い意味での「幻滅の訓練」かもしれません。でも私達は改めて「幻滅の訓練」を学びたいと思います。なぜならクリスチャンにとっての幻滅とは、単に希望を失ってしまうことではなく「永遠の希望」に私達の目を開かせる「大切な訓練」でもあるからです。どういうことでしょうか…。

イエス様を目の前にして、二人の弟子たちは言いました。「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだと望みをかけていました」と。「望みをかけています」ではなく「望みをかけていました」と過去形で言ったのです。彼らは深く幻滅していました。「もう終わりだ」と感じていました。「どうして『キリストの復活』を信じられるものか」と感じていました。もうすべては「過去」の話だったのです。

彼らが信じたイエス様は、病人を癒し、群集に食べさせ、威厳をもって語られる力強いイエス様だったのです。そんなイエス様に出会い「この方こそイスラエルを購う、救い主(メシア)に違いないという望みをかけ」全てを捨ててイエス様に従って来たのです。でもそのイエス様は十字架につけられて死んでしまい、三日もたっていました。だから彼らは暗い顔をして、うつむき、論じ合っていたのです。

彼らには、復活のイエス様がまったく見えませんでした。彼らの「信じていた」イエス様は、もう既に十字架上で死んでしまったからです。彼らの幻滅はあまりにも深く、目の前のイエス様に気付くことも出来ませんでした。しかし彼らの「自分なりの悟りに基づく信仰」が砕かれてしまったことは、長い目で見れば幸いでした。なぜならその痛みを通して、彼らは本当の意味で見える者とされたからです。

多くの信仰者が「幻滅」を通して、信仰に深みに達するのはそのためです。エマオの途上で「二人の目はさえぎられて」いましたが、私達の霊的な目も様々なものにさえぎられています。それは「自分なりの悟り」や「思い込み」や「勝手な期待」かも知れません。しかし、良くも悪くも深い「幻滅」を味わうことによって、長い年月をかけて築いてきた、「自分なりの信仰」は粉々に砕けてしまうのです。

その時もう一度、真剣に聖書に向かい合うことが大切なのです。イエス様は「聖書全体の中からご自分について書いてある事がらを説き明かされ」ました。具体的には、ご自分の復活を聖書そのものから証明されたのです。するとどうしたことでしょう。二人の心が「内に燃え」はじめたではありませんか!それは奇跡を見た時のような激しい燃え方ではありませんでしたが、確かに力強い信仰の炎でした。

あなたは幻滅を感じた時どうしていますか。「失ったもの」に固執し、幻滅の沼にどっぷり留まり続けますか?人とのおしゃべり明け暮れ、何とか人からの同情や慰めを引き出そうとしますか?そこに本当の解決はありません。大切なのは聖書を開き、時間をかけて神様とじっくり交わることです。その時、私達の心は静かに燃え始めるのです。聖書に深く根ざした信仰は、少々のことでつまずきません。

私達はもしかしたら、今まさに「エマオの途上」にいるのかもしれません。失望と落胆が、私達を激しく揺さぶっているかもしれません。幻滅の谷はあまりにも深く、私達には渡りきれないと感じているかもしれません。◆しかしあなたが信仰を持って、目を上げるなら、インマヌエルの主が、共に歩んでおられることを知るでしょう。恐れる必要はありません。深い「幻滅」を乗り越える時、そこに「本当の希望」が見えてくるのです。

「道々お話しになっている間も、
聖書を説明してくださった間も、
私たちの心は
うちに燃えていたではないか。」
(ルカ24章32節)

草は枯れ、花はしぼむ。
だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
(イザヤ40章8節)