2008年4月14日月曜日

第24回「病気による訓練」ヨハネ9章1-3節,11章17-27節

本日の学びは「病気による訓練」です。この問題は、死の問題と並んで、一回きりで学びきれるものではないし、絶対的な答えがあるわけでもありません。いってみればこれは「主の奥義」に関することです。しかしその時になって、慌てふためかないためにも、普段からこの問題に、真摯に取り組んでおくことは大切です。まずは「人生の訓練」の著者、エドマン博士の言葉に耳を傾けてみましょう。

地のちりから造られた私達は、ありとあらゆる肉の弱さにさらされやすい。中でも無視できないのは「病気」である。私達は健康なとき、それを素晴らしいとは思わず、それを与えてくださった方に感謝をしようともしない。しかしいざ病気になると、体は自由に動かず、昼は寂しく、夜は長くなり、喜びは落胆となり、歌はため息となり、自然に涙が溢れてくる。それが「病気による訓練」である。(P253要約)

この訓練の最大の難関は、沸きあがる「疑問の声」であろう。どんな苦しみの中でも、希望と愛に対する確信があれば、歯を食いしばって耐えることが出来る。でも、その確信を失い、疑いに飲み込まれるとき、私達は本当の苦しみを経験する。その時私達はこう考える。「なぜこんな病気にならなくちゃいけないの?」「私に何か落ち度があったの?」「なぜ神は何もしてくださらないの?」(p253-254意訳)

イエスの弟子達も同じように考えた。彼らは盲人の前でこう言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか(9:2)」と。今までどれだけ多くの人々が、同じような冷ややかな視線や言葉に痛めつけられてきたことだろうか。間違った神学は、助けとならないばかりか、痛めつけられた家族を、更に苦しめる。それ以上に、残酷な言葉はない。

しかしイエス様の答えは全く違っていた。イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです(3)」と答えられた。周りはとやかく、ああだ、こうだと「因果(いんが)探し」をする。しかしイエス様は「目的」を教えられた。ラザロの時もそうだった。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです(11:4)」と言われた。その視線の先には希望が満ち溢れ、目の前の人に対する深い哀れみで満ち溢れていた。

でも多くの人々はこの言葉を誤解している。「神のわざがこの人に現れる」ということを「奇跡が起き癒されること」だけだと決め付けている。気持はわかるが「神様がどのように栄光を表すか」を私たちが決めることは出来ない。それは陶器が、陶器師に向かって「こうせよ」と命令をするようなものである(イザヤ29:16)。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに深入りしません(詩篇131:1)」。これこそ私達のとるべき態度である。

それでは「神の栄光」とは何であろうか?イエス様はマルタにこう言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と。◆つまり「神の栄光」とは、この『キリストにある永遠のいのち』が明らかになることなのです。それは癒しによってかもしれないし、別な方法によってかもしれません。それは分かりません。◆ただ一つ言えることは「私にとっては、病気になることも、癒されることも、生きることも、死ぬことさえも、この神の栄光につながるならば益」なのです!

たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、
測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(Ⅱコリント4章16-18節)