2008年2月27日水曜日

第20回「落胆に対する訓練」ヨブ記 ヘブル12章

前回のテーマは「疲労困憊に対する訓練」でした。私達はエリヤの生涯から、疲労困憊に陥ってしまうとき、まず必要なのは、十分な休息と肉体の栄養であることを確認しました。しかしそれだけでは霊的な疲労は取れず、最終的には神の前に出て「細き御声」を聞き、人生に新しい「使命(ミッション)」をいただくことが大切だと学びました。今回もその内容と非常に良く似ていますが、また違った角度から学んでみたいと思います。今回のテーマは「落胆に対する訓練」です。

まずは、自分ではなく、他人が落胆していたらどうしたらよいのかを考えましょう。その反面教師がヨブの友人たちです。エリファズはヨブに言いました。「さあ思い出せ。誰か罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ(4:7-8)」と。これを聞いてヨブの心はどんなに痛んだことでしょうか!最も慰めを必要としている時に、よりによって友からお説教され、裁かれてしまったのです。ヨブは言いました。「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう(6:14)」つまり、それくらいの悲しみだったのです。

私達は、苦しむ友に対して、ヨブの友人のようなことを言ってはいないでしょうか?クリスチャンの熱心さは、時に人を大きく傷つけます。聖書にはこうあります。「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい(ヤコブ1:19)」また「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」と。神様は最終的にエリファズをこう叱責されました。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それはあなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ(42:7)」と。人を裁くものは、その同じ秤で持って、神様によって裁かれるのです(マタイ7:2)。

では、逆の立場ではどうでしょう。思いがけない不幸が、自分の家族に災いが襲ってきて…。自分だけは何とか頑張ろうと思っても、自分まで病気になってしまい…。精神的にも肉体的にも追い詰められ、親しい友人には「分かって」もらいたいと思っても、友人は友人で自分のことで精一杯で、全く理解されず…。おせっかいな友人にはお説教をされ…。そうこうしている間にも、段々と気力も体力も奪われ、気付けば「落胆の沼」へとどっぷりはまり込んでいる。そんな時私達は、周りの全てを遮断し、自分の殻に閉じこもってしまいたいという誘惑にかられます。

しかしそこであえて「走り続ける」という選択肢もあるのです。これは全ての人にはお勧めできません。普通だったら休んだほうがいいのです。ゆっくり休んで、祈りと御言葉に時間を割き、癒されるのも一つの方法でしょう。しかし健康的にボロボロになっても、精神的にズタズタになっても、霊的スランプに落ち込んでいても、それでも尚「主イエスを見上げて走り続ける」という第三の道があるのです。そうすることによって、ある人々は健康なときには知りえなかった「弱さにおける恵み(Ⅱコリ12:9)」や、自分の力によらない「御霊の原理(ローマ8章)」を体験するのです。その時私達の信仰の扉は別次元に向かって大きく開かれます。歴史上の信仰の偉人と呼ばれる人々は、大体そういうところを通らされた人達です。

この中にも「落胆している者」があるでしょうか?「もうダメだ」と感じている人がいるでしょうか?そんな時はあえて走り続けることが、あなたの心を守ってくれることもあるのです。◆すると不思議なことに、ふと足が軽くなる瞬間がやってきます。自分の力ではなくて、主の恵みと御霊の力によって、走っていることに気付く時がやってくるのです。

「忍耐をもって
走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、
完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
あなた方の心が元気を失い、
疲れ果ててしまわないためです」
(ヘブル12:1-2、4)

第19回「疲労困憊に対する訓練」Ⅰ列王記19章

本日のテーマは「疲労困憊に対する訓練」ですが、人生には「山」もあれば「谷」もあります。それはクリスチャンとて例外ではありません。恵みの高嶺を歩むこともあれば、霊的スランプに陥ったり、死の陰の谷を歩んだりすることもあるのです。そしてそれらはよく、立て続けに私たちを襲います。エリヤの人生を見る時に、そのことが顕著に現れています。彼はバアルの預言者との直接対決で、劇的な勝利を収めました。しかしその直後に「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」と死を願っているのです。いったい何がおきたのでしょうか?

疲労困憊の意味を辞書で調べてたら「からだや頭を使い過ぎたり空腹の度が過ぎたりした結果、肉体的・精神的に持続力がなくなる状態」とありました。確かにこの時のエリヤは疲労困憊していたのでしょう。あのカルメル山において450人のバアルの預言者を相手に孤軍奮闘したことは、想像を絶する緊張とエネルギー、プレッシャーとストレスだったでしょう。しかもやっと勝利したのに事態は何も変わっていなかったのです。イゼベルは依然自分の命をつけ狙い「あすの今頃までに」は殺すというのです。エリヤにはもう戦う気力が残されていませんでした。

しかしそれ以上にエリヤを疲れさせたのはイスラエルの民の態度でした。彼らは確かにカルメル山での大勝利を見て「主こそ神です。主こそ神です。」と主に立ち返りました。しかしエリヤの命が狙われている今、彼らは何も言わず、立ち上がろうともしないのです。エリヤの怒り、苛立ちは、アハブやイゼベルに対してよりも、そんなイスラエルの人々に向けられていたのです。その証拠にエリヤは、主に二度も「イスラエルの人々は…私の命をねらっています(10,14)」と訴えています。彼は自分がこの民のためにしてきたことが無駄だったと嘆いているのです。

そうして彼は、生きる気力を失ってしまいました。心身の疲れに、自分のしてきたことが無駄だったという精神的な落胆、それに加えて、消えることのないプレッシャー、不安、孤独…。もしかしたら彼は「どうして主はこんなにも私を苦しめるのか」と言葉にならない不平不満を抱え、霊的スランプに陥っていたのかもしれません。そんな時、主の使いが現れ、最初に言われたことが「起きて、食べなさい(19:5)」だったのです。神様は、疲労困憊している人に、いきなり「お説教」をされません。私達の弱さを知り、まずはゆっくり休みなさいと言われるのです。

そして、その上で「ここで何をしているのか(9)」と言われました。その時の彼は、ほら穴の中にいましたが、それは彼の精神状態を表していました。彼はただ、洞穴の中に閉じこもり、自分の周囲の暗闇ばかりを見つめ、狭い世界に閉じこもっていたのです。そんなエリヤに、神様は「ここで何をしているのか」と言われました。それは単に、そんなところに閉じこもってないで明るい世界を見なさいという意味ではありません。「外に出て、山の上で、主の前に立て(11)」と言われているのです。それがなければ、どんなゆっくり休んでも、霊的な疲労は取れません。

主の前でエリヤは「かすかな細い声」を聞きました。それはカルメル山で激しい体験をし、その後スランプに陥っていたエリヤに対する、神様からの教訓ではないでしょうか。つまり神様はここであえて「細い声」を通して語られることで、信仰というものは、そうした地道な神様との交わりに基礎を置くことだとエリヤに教えようとされていると思うのです。そこにこそ本当の霊的な活力があるのです。

あなたは疲れていませんか。もし疲れているなら、まずは美味しい物を食べて充分に休んでください。そしてその上で主の前に立ち、細き御声を聞いてください。そこで主はもう一度「行け、帰れ、あなたの道を(15)」と私たちをこの世に派遣してくださるのです。

「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
主は仰せられた。
「外に出て、山の上で主の前に立て。」
(Ⅰ列王記19章9,11節)