2008年6月22日日曜日

第30回「わきまえる訓練」 民数記16章1-35節

今日のテーマは「わきまえ」です。「わきまえ」の意味を辞書で引くと「自分の置かれた立場から言って、すべき事とすべきでない事とのけじめを心得ること」と説明されています。ダビデは詩篇の中で、「わきまえのない状態」のことを「獣のよう」と表現しています。そう考えると「わきまえる訓練」とは、クリスチャンとして以前に、「人として」大切な訓練であることであることが分かります。

コラをはじめとする、民の代表250人は、この「わきまえ」を失ってしまいました。彼らは「モーセとアロンは分を超えている」とか「私達の上に君臨し、私たちを支配しようとしている」とか、色々と難癖をつけて、本来たくことを許されていない「香」を、自分達の手でたこうとしたのです。「モーセとアロンばかりが特権階級にいるのはおかしい」「本来平等のはずじゃないか」と言うわけです。そうして結局「すべきことと、すべきでないことのケジメを」失ってしまったのです。

その根本にあったのは「ねたみ」でした。もっともらしい理由を並べつつも、つまりは、モーセとアロンの「立場」が羨ましくてしょうがなかったのです。そして「自分にだって出来る」「なぜダメなんだ」と不満に思ったのです。これは十戒の「むさぼり」の罪です。モーセはそのことを見抜き「あなた方には既に大切な役割が与えられているのに、何が不足なのですか?祭司の職まで要求するのですか」と言いました。しかし彼らは悔い改めず、その身にさばきを招いてしまったのです。

似たような議論は今日も存在します。「牧師だけが特権階級にいるのはおかしい」「牧師は、我々の上に君臨して私たちを支配しようとしている」「説教も聖餐式の司式も、もっと信徒に任せるべきだ」と。そうして「行き過ぎた万人祭司」を唱えるのです。しかし聖書は、そんなことを教えてはいません。あくまで主の前における「存在としての平等」を教えつつも、「賜物」と「召命」における「違い」は尊重し、従うべき人には従いなさいと(Ⅰペテ2:13,5:5)教えているのです。

激しい批判にさらされた時モーセの態度は立派でした。彼は自分を吊るし上げる人々の前で「ひれ伏し(4)」怒ってもその感情をぶちまけず、まず「主に申し上げ(15)」、決して威張らず、ひねくれず、危険も顧みず必死に「とりなして(22,45)」いるのです。彼こそ本当の意味で「わきまえのある人」ではないでしょうか?

つまり「わきまえる」とはどういうことでしょう。一言でいえば「思うべき限度を越えて思い上がらない」ことです。それは「神様の御前で」です。「神様を恐れることこそ知識のはじまり(箴1:7)」です。それが出来ず自分の欲望のままに生きる人を「獣」と呼ぶのです。また「人に対して」もです。何にでも口を挟もうとするのではなく、謙遜に「人を自分よりまさっていると思う」のです。そういった自覚が、わきまえのある信仰者と、落ちついた教会・社会生活を生み出すのです。

あなたはいつの間にか「獣」になっていませんか?気付かないうちに、神の前にも、人の前にも「自分」が出すぎて、わきまえのない人になっていませんか?◆かといって「引っ込むこと」が「わきまえること」でもありません。自分に与えらた賜物に感謝し、その賜物に忠実に生きることが「わきまえの訓練」なのです。

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、
主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
詩篇19篇7節

兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、
尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
ローマ12章10節

第29回「疑いについての訓練」 マタイ11章1-6節

今日のテーマは「疑い」です。一口に「疑い」といっても、それは二つに分類できます。一つは、良く知りもせず、求めもしない人が、頭ごなしに決め付けるところの疑いです。でもそれは本当の「疑い」ではありません。信じたこともない人に、どうして「疑う」ことが出来るでしょうか?それはむしろ「先入観」や「偏見」と言ったほうが適切だと思います。今日学びたいのは、もう一つの「疑い」です。それは本気で信じ、求めた人とのみが感じるところの「疑い」です。言い換えれば「神に対する真摯な問い」とも言うことができるのではないでしょうか。

イエス様は十字架上でこう祈られました。「わが神、わが神、どうしたわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)」と。ある人は誤解し「イエスは『神の子』ではなかったから最期に神を疑ったんだ」と言います。しかしそれは間違いです。イエス様は父なる神様と太い絆で結ばれ、「ひとつ」であったからこそ、十字架上で私たちの罪を背負い、父との断絶を味わった時、初めてこのように「真摯に問うた」のです。根底にあったのは「不信仰」ではなく「揺るがない愛」でした。

しかしトマスの場合は違っていました。彼は「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません(ヨハネ20:25)」と言いました。これは明らかに、彼の不信仰から生まれた疑いでした。ですからイエス様も、彼にははっきり「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ずに信じる者は幸いです(27-29)」と言われたのです。

バプテスマのヨハネの感じた「疑い」はどちらだったのでしょう?彼は弟子を通じてこう訊ねました。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも別の方を待つべきでしょうか(3)」。ある人は長い幽閉生活の中で、ヨハネは不信仰に陥ったと言います。でもそんな簡単な言葉では片付けられません。彼は「キリストこそ『世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)』です」との確信を持ち続けていました。だからこそ「いつそれが明らかになるのですか」と「真摯に問うて」いたのです。

彼の問にイエス様は何と答えたでしょうか。イエス様はただ一言だけこう答えられました。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい(4)」と。それで十分だったのです。なぜなら「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、…死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられている」その有様は、イザヤが預言した通りだったからです(35:5-6)。

イエス様は、ヨハネに「確信を捨てず、御言葉に留まり続けなさい」とのサインを送られたのです。そしてヨハネはそれをキャッチし、信仰に留まり続けたのです。脅されても「死に至るまで忠実(黙示2:10)」でした。ある人はヨハネの悲惨な最期を見て「犬死だった」と評するかもしれません。しかしイエス様のために「道をまっすぐに整える(マルコ1:2)」使命に徹した彼の人生は、最高に幸せだったのではないでしょか?彼は天において間違いなく「いのちの冠」をいただいているのです(11~)!

あなたは疑いを感じていますか?だとすれば、その「疑い」は何を見ても何を聞いても解決されることはないでしょう。結局心を裸にし真摯に神様に問いかけ、御言葉に留まり続けるしかないのです。そうすることによって私達はジメジメした疑いの沼から救われるのです。疑いは更なる疑いしか生みません。しかし信仰は勇気と希望を生み出すのです!

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
(ヘブル10章35-36節)

第28回「権力に対する訓練」 マタイ20章17-28節

「ロード・オブ・ザ・リング」という映画を知っているだろうか?一つの指輪を巡る話なのだが、その指輪を手に入れた者は、世界を支配できる「力」を手に入れることができるのである。しかしその指輪を手に入れたのは、そんな野望とは全く関係のない、純真無垢な一人の少年(フロド)であった。でも彼は、その指輪を手に入れた瞬間から、だんだんと心を蝕まれ、芽生える野心と正義感の間で、深い葛藤を味わうことになる。私はその指輪と「権力」が非常に似ていると思う。

あなたは「権力」など要らないと考えるでしょうか?もしそうなら、まだまだあなたは自分のことを(いや人間そのものを)知らな過ぎる。「出るくいは打たれる日本」ではそういう声も多いかもしれませんが「権力への渇望」は私たちが思う以上に根深いものです。求めていないようで、喉から手が出るほど求めており、いざその権力を手にすると、どんな小さな権力でも、私達はバランスを失ってしまう。

その点、ヤコブとヨハネ、彼らの母は正直すぎました。お母さんは「御国で、息子のひとりが右、もうひとりが左に座る」ことを願いました。つまり「天国での№1と№2」を願ったのです。しかし彼らは自分達が何を求めているのか分かっていませんでした。彼らはイエス様が言われた「人の子がその栄光の座に着く時、あなたがたは十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばく(19:28)」との言葉を勘違いし「地上おける王国」の「主要大臣ポスト」を願っていたのです。

それを聞いて他の10人は腹を立てました。なぜでしょうか?実は彼らも同じことを願っていたからです(18:1-6)。彼らの間には普段から出世争いが渦巻いており、それが隠せないところまでヒートアップしていました。何ということでしょうか!イエス様はたった今「3度目の受難告知」をされたばかりなのです(18-19)。それなのに彼らは「自分の出世」のことで頭がいっぱいで喧嘩をしていたのです。

そんな彼らにイエス様はやさしく語られました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい(26-27)」と。イエス様は、彼らの「偉くなりたい」「人の先に立ちたい」という願いを頭ごなしに否定されず、そういう願望が人間の内にあることを認めた上で、その願いを良いことのために用いなさいと教えられました。つまり「リーダーになるな」ではなく、「立派なリーダーになりなさい」と教えられたのです。そこが単なる禁欲主義と違う点です。

エドマン博士はこう指摘します。「私達の大部分の者は『従う者』である。しかしながら、ある人々は学校や教会、職場や社会において『指導的な立場』にならなければならない。それ自体は悪いことではない。ただ彼らには、与えられた権力を自己の利益のために用いず、決して威張らず、人を支配しないことが求められる。むしろ愛と謙遜な心で、指導の任につかなければならない」(291-292意訳)

立派なリーダーとはどのような存在でしょうか。その完全な模範はイエス様です。イエス様は「仕えるものの姿をとり、ご自分を無にし、実に十字架の死にまでも従われ」ました(ピリピ2章)。◆そのような生き方は、リーダーだけに求められるものではありません。イエス様は「私が足を洗ったのですから、あなた方も互いに足を洗い合うべきです」と教えられました(ヨハネ13:14)。キリストの共同体(教会)は「仕えあう共同体」なのです!

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、
みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、
あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、
仕えるためであるのと同じです。
マタイ20章26-28節(要約)

第27回「逸脱に対する訓練」 ルカ10:41-42 ピリピ3:13-14

本日のテーマは「逸脱に対する訓練」です。あまり聞きなれない言葉ですが「逸脱」の意味を国語辞典で調べると「本筋や決まった範囲からそれること」とあります。つまり今日の学びは「的外れな人生を送らないための訓練」でもあるのです。ご存知のように「罪」の語源「ハマルティア」の意味は「的外れ」です。そう考えると、今日の訓練が、いかに大切であるかお分かりいただけると思います。私達はどのようにして「人生の本筋」を守り通すことが出来るのでしょうか…?

まず大切なのは、「二の次にすべきこと」に、固執しすぎないこと、です。これが結構難しいのです。どうでも良いことや、くだらないことであったら、固執することもないでしょう。しかし、くだらなくはなくても、「二番目ぐらいに大切なこと」には、結構、固執しすぎてしまうことがあるのではないでしょうか。少し回りくどい表現ですが、その分かりやすい例として、マルタを上げることが出来ます。

マルタは、イエス様をもてなすために忙しくしていました。それ自体は良いことでしたが、「最も大切な第一とすべきこと」ではありませんでした。むしろ「どうしても必要なただ一つのこと」を選択したのは、妹のマリヤだったのです。彼女はイエス様の足元にすわり、ただ御言葉に聞き入っていました。マルタは忙しくするあまり、そちらをおろそかにし、妹からそれを取り上げようとしていたのです。

エドマン博士はこう指摘します。「イエス様はもちろん、マルタの善意をよく理解しておられました。しかしイエス様は、おかずの数は減らしてもよいから、永遠のことについて語り合いたい、そして御言葉に耳を傾けて欲しいと願われていたのです。私達も同じような間違いを犯していないでしょうか。『良いこと(good)』にこだわりすぎて『最も大切なこと(best)』をおろそかにしていないでしょうか。『どうしても必要なことは、ただ一つ』です。それを見失ってはいけません。」

またパウロは言いました。「私はただこの一事に励んでいます。すなわち後ろのものを忘れ…」と。イザヤ書にも「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よわたしは新しい事をする。今やそれは芽生えている(43:18-19)」とあります。それがどんな過去であれ、過去にこだわってしまうとき、私達は本来の目標を見失い、いつの間にか「わき道」へと迷い込んでしまうことがあるのです。試してみてください。首から上だけは後ろを向きながら、まっすぐ走れますか?

大切なのは、しっかり前を向き「目標を目ざして一心に走ること」です。私達にはまだ「先」があります。過去を振り返り哀愁にひたっている暇はありません。私たちが目指しているのは、キリストご自身から与えられるところの「栄冠」なのです。それは試練に耐え抜き、良しと認められた人にだけ与えられるのです(ヤコブ1:12)。先に天に召された主にある兄弟姉妹も、私たちが悲しみにくれるより、立派に信仰の道を走り、栄冠をかむって、御国にて再会することを望んでいるでしょう。

パウロとマリヤには、共通点がありました。それは彼らが、今なすべき「ただ一つのこと」を、しっかり心得ていたということです。そして彼らは、そこから目を離さず、「ただその一事」に励んでいたのです。◆あなたはどうでしょうか?あなたの人生は、的を射た人生でしょうか?それとも、的外れな人生でしょうか?◆あなたの心を占領しているそのことは、今、本当になすべきことでしょうか?永遠の前に、どれほど価値のあることでしょうか?◆どうか私達の人生が、逸脱ではなく、栄冠へと続く人生でありますように。

「兄弟たちよ。私は、ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、
目標を目ざして一心に走っているのです。」
ピリピ3章13-14節(要約)