2008年1月31日木曜日

第18回「荒野での訓練」 出エジプト2:11-3:14

人生には「荒野での訓練」というものが存在する。「これからだ」というときに限って、肉体に弱さが与えられたり、精神的にダウンしてしまうときがある。ある者は、そのような状況に追い込まれるとき、自己憐憫の罠に飲み込まれ、本当にダメになってしまうだろう。しかし主に信頼するものは、そのような困難の中でも、腐らず、コツコツと訓練を積み重ねる。そしてその訓練によって培われた強靭な精神と信仰をもって、健康なときに成しえた仕事よりも、更に大きなことを成し遂げるようになる。今日はモーセを通して、そんな信仰者の姿を学びたい。

荒野に行くまでの彼は、宮廷で育ったエリートでした。当時最高の学問を学び、もちろん王子として、リーダーシップについても訓練を受けていたことでしょう。しかし出エジプトの大事業を果たすためには、まだまだ信仰においても人格においても足りないところが多々ありました。事実、彼が自らの正義感から立ち上がったとき同胞のヘブル人でさえ彼について行きませんでした。神様は彼の欠けた部分を補うため、彼を荒野へと導き、そこで40年間じっくり訓練されたのです。

彼はまず荒野で「孤独」を学びました。長男につけた名前に、その時の心境がにじみ出ています。その名はゲルショム「私は外国にいる寄留者だ」でした。誰にもちやほやされず、ひたすら荒野で羊を追う毎日、しかし彼はその中で、自分でも気付かないうちに大切な訓練を受けていました。それは「孤独の中で神様と一対一で向き合う訓練です」。リーダーと言うものは孤独なものです。しかしその中で神様と向き合い、答えを頂き、民を導いて行く責任がリーダーにはあるのです。

また彼は、主への「信頼」を学びました。主への信頼とは、たとえ絶望的な状況の中でも「神様は私達の祈り聞き、約束を覚え、いつも見ておられ、私たちを知っておられる」と信じつづけることです。彼はそういった神様に対する信頼を、劇的な何かによって培(つちか)ったのではなく、荒野において40年間、ただ毎日羊を追い続け、家族と暮らす中でゆっくり培っていったのです。燃える鉄は、ゆっくり冷まし、何度も何度も打つことによって、粘り強く、折れにくくなるのです。

また彼は、荒野で「謙遜」を学びました。エジプトにいたころの彼は、どちらかと言えば「俺が世の中を変えてやる」といったような、強引なところがありました。だから神の時を待たず、自分の熱心さだけで行動し、あっという間に躓いてしまったのです。その失敗により彼の自信は砕かれました。しかし彼はもっと大切なものを発見しました。神様は燃える柴の中からこう言われました「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」と。この一言によって、彼は神様の前で、おのれが何者かを知ったのです。

そうして彼は、神とともに歩む者と変えられました。燃える柴の中から、主はこうとも言われました。「わたしはあなたとともにいる。わたしは、『わたしはある。』という者である」と。自我を砕かれ、謙遜にせられることによって、この「ともにいてくださる主」の力強さを知ることが出来るのです。この「荒野での訓練」によって、モーセという人は「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった(民数記12章3節)」と呼ばれる、歴史上最も偉大なリーダーとなっていったのです。

皮肉なものです。40歳のという心身ともに充実していた時には挫折し、80歳という世間的に見れば引退を決め込むときに、主によって押し出されたのです。その人の願いや努力が、いつ、どのような形で花開くのかは分からないものです。◆大切なのは「荒野での訓練をどう過ごしたのか」なのです。腐ったらそれまでです。しかしその中でも主を信頼し、コツコツと、誠実に歩んできた者は、やがて時が来て、大きく主に用いられるのです。

「まことに主がこの所に(荒野にも)おられるのに、
私はそれを知らなかった。」
創世記28章16節

第17回「成し遂げる訓練」

古くから「何かを始めたら、それを最後までやり遂げなさい」という格言があります。しかしなぜ成し遂げなければならないのでしょう?また、どうしたら成し遂げることが出来るのでしょう?あなたはその問に答えることが出来ますか?以前にも「敢行の訓練」について学んだことがありますが、今回は、また別の視点から、光をあてて見たいと思います。今回のテーマは「成し遂げる訓練」です。

多くの人は、新しい事を始めることは大好きです。大きな夢と希望を抱いて、胸をワクワクさせながらそれに取り掛かります。時には食事をするのも忘れて、それに没頭します。しかし残念ながら、それを「成し遂げる力」に欠けています。何かの拍子に、急に熱が冷め、飽きてしまうのです。そればかりか、様々な言い訳を自分にします。「いやぁ、あれはやるだけの価値がなかったのですよ」など。

もっともらしい口実は、いくらでも手に入ります。ある人は目を輝かせて、熱心にこう言います。「今までとは違う、もっと大きくて、素晴らしいヴィジョンが与えられた」と。そして、既に手にかけていた仕事を放り出して、まったく新しい夢を追いかけようとするのです。しかし気を付けてください。それもは「もっともらしい理由をつけた逃避」ではないでしょうか?夢を語っているようで、ただ投げ出したい誘惑に負けて、中途半端に放り出しているだけなのはないでしょうか?

その結果、私たちが得るものはなんでしょうか?それは「何をしてもすぐに止めたくなる悪い癖」です。その人は常に新しいことを始めているのですが、実際は段々と低いところに落ちて行っているのです。そして同じ失敗を何度も繰り返すのです。当然です。何も成し遂げていないのですから次のステップに進めるわけがありません。しかし同じように表面上は成し遂げられなかったとしても、何かに真剣に取り組んだ人は、そこから尊い何かを学び取り少しずつ前進しているのです。

愚か者よ、蟻のところに行って学んできなさい。冬の間にせっせと耕し、刈り入れの時期を待ちなさい。明日がその時かもしれないのです。遠くの夢ばかりを見ているだけではなく、既に与えられている目の前の仕事をまず完成させなさい。そうすれば、その一歩先が見えてくるのです。そうした小さなことの積み重ねによって「忍耐力」が養われます。すると神様はそういった人に、もっと大きなことを任せてくれるのです。小さいことに不誠実な人には大きなことも任せられません。

しかしそれは単なる自己実現とは違います。人の意見に耳を傾けず、自分の確信(欲望)だけに固執するなら、あなたはいずれ誰からも相手にされなくなるでしょう。大切なのは「祈り」です。イエス様がゲッセマネで祈られたように「わたしの願いではなく、御心の通りに」との祈り(心の余白)が、私たちには必要です。自分の野望を成し遂げるのではなく、神様の御心を成し遂げることが大切なのです(ヨハネ4:34)。もしそれがズレているなら思い切った方向転換も必要になるでしょう。

「成し遂げる訓練」その最高の模範はイエス・キリストの生涯にあります。イエス様は「まことに神の子」でありながら「まことに人の子」でもあられました。当然、人としての「死に対する恐怖」や「そこから逃れたいという誘惑」もあったことでしょう。しかしイエス様は、そこから一歩も引かず、苦しみもだえ、血の汗を流すような祈りを通して、それら全てに勝利を取ってくださったのです。「完了した」との宣言は、血のしずくの結晶です。私達はこの地上で何を成し遂げたいと願っているでしょか?それは御心にかなっているでしょうか?崇高な目的のために生き、それを成し遂げられる人は何と幸いでしょうか!

神は、みこころのままに、
あなたがたの内に働いて志を立てさせ、
事を行なわせてくださるのです。
すべての事をつぶやかず、
疑わずに行ないなさい。
そうすれば自分の努力した事が無駄ではなく、
苦労した事も無駄でなかったことを、
キリストの日に誇ることができます。
(ピリピ2:13-16 要約)

2008年1月10日木曜日

第16回「死生観における訓練」(ピリピ1章27節-2章11節)

新年最初の聖書研究会です。ある人はまだ白紙の2008年というキャンバスを前にして、どんな絵を描こうかワクワクしながら、様々な抱負や計画を立てているかもしれません。でもちょっと待ってください。聖書には「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(ヤコブ4:15)」とあります。生きていることは当たり前ではなく、生かされているのです。今回のテーマは「死生観における訓練」です。

中世の修道士達は「メメント・モリ」と挨拶をしました。直訳すると「死を覚えよ」という意味ですが、そこには「今日も、命を与えてくださっている、主を覚えよ」との積極的なメッセージも込められています。人生の終わりを意識する時に、私達は「いま、与えられているいのちの大切さ」に目が開かれます。また、その命が偶然にではなく、神様によって与えられていることを覚える時に、「その神様の御心が何であるかを考えながら」、一日一日を大切に生きるようになるのです。

この世の死生観は全く違っています。多くの人は「死を他人事」のように考えているのではないでしょうか?そして限られた時間をダラダラと無駄に過ごしているのです。またある人々は間違った方法で死を意識しています。「どうせいつかは死ぬのだから、生きている間に、自分の好きなことをして、自分の力を試してみようじゃないか」と。そこに、いのちを与えてくださっている方への感謝も、その方の御心も求める求道心もなく、ひたすら「自分」を追求しているのです。

その結果、どれだけの人が本当に満足しているのでしょか?この世の与えてくれるものは「お金」にしろ「快楽」にしろ「名誉」にしろ、いつも一時的な満足しか与えてくれません。そして同じ満足を得るためには、よりたくさんの「お金」と「快楽」と「名誉」が必要となるのです。それを「快楽の中毒性」といいますが、人間の欲望というものは、どれだけ追求しても決して満足することはないのです。

パウロの生き方はまったく違っていました。彼は言いました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と。でも実際の彼は、このピリピ人への手紙を書いた時、獄中にいました(1:13)。また折角たて上げたピリピ教会は、後から入ってきた者によって乗っ取られてしまいました(1:17)。どこが「益」なのでしょうか?しかしそれでも彼は「キリストが述べ伝えられているのなら私は喜ぶし、今からも喜ぶことでしょう(1:18)」と告白しているのです。彼にとっての「益」とは、ただ「キリストのすばらしさが現れること(1:20)」だったのです。

私達は本当に「キリストのすばらしさ」を残そうとしているでしょうか?それとも「自分のすばらしさ」を残そうとしているでしょか?見せかけの善行や熱心さ、そういったものは、結局、自分の名を残そうとする「党派心」や「虚栄心」「欲望の追求」なのではないでしょうか?私達は、本当に心から「キリストのすばらしさが現わされること、それが私の切なる願いです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:20-21)」と告白できるでしょうか?

福音にふさわしい生活、それにはいろいろなことが言えるでしょう。聖い生活や、愛の実践、伝道のために一致奮闘する生活(1:27)など。しかし一言でいえば、キリストのように「自分を無にする生活」なのではないでしょうか。◇イエス様は、ご自分を無にして、家畜小屋に生まれ、十字架にかかってくださいました。これが最高の模範なのです。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2章6-8節)