2008年1月31日木曜日

第17回「成し遂げる訓練」

古くから「何かを始めたら、それを最後までやり遂げなさい」という格言があります。しかしなぜ成し遂げなければならないのでしょう?また、どうしたら成し遂げることが出来るのでしょう?あなたはその問に答えることが出来ますか?以前にも「敢行の訓練」について学んだことがありますが、今回は、また別の視点から、光をあてて見たいと思います。今回のテーマは「成し遂げる訓練」です。

多くの人は、新しい事を始めることは大好きです。大きな夢と希望を抱いて、胸をワクワクさせながらそれに取り掛かります。時には食事をするのも忘れて、それに没頭します。しかし残念ながら、それを「成し遂げる力」に欠けています。何かの拍子に、急に熱が冷め、飽きてしまうのです。そればかりか、様々な言い訳を自分にします。「いやぁ、あれはやるだけの価値がなかったのですよ」など。

もっともらしい口実は、いくらでも手に入ります。ある人は目を輝かせて、熱心にこう言います。「今までとは違う、もっと大きくて、素晴らしいヴィジョンが与えられた」と。そして、既に手にかけていた仕事を放り出して、まったく新しい夢を追いかけようとするのです。しかし気を付けてください。それもは「もっともらしい理由をつけた逃避」ではないでしょうか?夢を語っているようで、ただ投げ出したい誘惑に負けて、中途半端に放り出しているだけなのはないでしょうか?

その結果、私たちが得るものはなんでしょうか?それは「何をしてもすぐに止めたくなる悪い癖」です。その人は常に新しいことを始めているのですが、実際は段々と低いところに落ちて行っているのです。そして同じ失敗を何度も繰り返すのです。当然です。何も成し遂げていないのですから次のステップに進めるわけがありません。しかし同じように表面上は成し遂げられなかったとしても、何かに真剣に取り組んだ人は、そこから尊い何かを学び取り少しずつ前進しているのです。

愚か者よ、蟻のところに行って学んできなさい。冬の間にせっせと耕し、刈り入れの時期を待ちなさい。明日がその時かもしれないのです。遠くの夢ばかりを見ているだけではなく、既に与えられている目の前の仕事をまず完成させなさい。そうすれば、その一歩先が見えてくるのです。そうした小さなことの積み重ねによって「忍耐力」が養われます。すると神様はそういった人に、もっと大きなことを任せてくれるのです。小さいことに不誠実な人には大きなことも任せられません。

しかしそれは単なる自己実現とは違います。人の意見に耳を傾けず、自分の確信(欲望)だけに固執するなら、あなたはいずれ誰からも相手にされなくなるでしょう。大切なのは「祈り」です。イエス様がゲッセマネで祈られたように「わたしの願いではなく、御心の通りに」との祈り(心の余白)が、私たちには必要です。自分の野望を成し遂げるのではなく、神様の御心を成し遂げることが大切なのです(ヨハネ4:34)。もしそれがズレているなら思い切った方向転換も必要になるでしょう。

「成し遂げる訓練」その最高の模範はイエス・キリストの生涯にあります。イエス様は「まことに神の子」でありながら「まことに人の子」でもあられました。当然、人としての「死に対する恐怖」や「そこから逃れたいという誘惑」もあったことでしょう。しかしイエス様は、そこから一歩も引かず、苦しみもだえ、血の汗を流すような祈りを通して、それら全てに勝利を取ってくださったのです。「完了した」との宣言は、血のしずくの結晶です。私達はこの地上で何を成し遂げたいと願っているでしょか?それは御心にかなっているでしょうか?崇高な目的のために生き、それを成し遂げられる人は何と幸いでしょうか!

神は、みこころのままに、
あなたがたの内に働いて志を立てさせ、
事を行なわせてくださるのです。
すべての事をつぶやかず、
疑わずに行ないなさい。
そうすれば自分の努力した事が無駄ではなく、
苦労した事も無駄でなかったことを、
キリストの日に誇ることができます。
(ピリピ2:13-16 要約)