2008年1月10日木曜日

第16回「死生観における訓練」(ピリピ1章27節-2章11節)

新年最初の聖書研究会です。ある人はまだ白紙の2008年というキャンバスを前にして、どんな絵を描こうかワクワクしながら、様々な抱負や計画を立てているかもしれません。でもちょっと待ってください。聖書には「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(ヤコブ4:15)」とあります。生きていることは当たり前ではなく、生かされているのです。今回のテーマは「死生観における訓練」です。

中世の修道士達は「メメント・モリ」と挨拶をしました。直訳すると「死を覚えよ」という意味ですが、そこには「今日も、命を与えてくださっている、主を覚えよ」との積極的なメッセージも込められています。人生の終わりを意識する時に、私達は「いま、与えられているいのちの大切さ」に目が開かれます。また、その命が偶然にではなく、神様によって与えられていることを覚える時に、「その神様の御心が何であるかを考えながら」、一日一日を大切に生きるようになるのです。

この世の死生観は全く違っています。多くの人は「死を他人事」のように考えているのではないでしょうか?そして限られた時間をダラダラと無駄に過ごしているのです。またある人々は間違った方法で死を意識しています。「どうせいつかは死ぬのだから、生きている間に、自分の好きなことをして、自分の力を試してみようじゃないか」と。そこに、いのちを与えてくださっている方への感謝も、その方の御心も求める求道心もなく、ひたすら「自分」を追求しているのです。

その結果、どれだけの人が本当に満足しているのでしょか?この世の与えてくれるものは「お金」にしろ「快楽」にしろ「名誉」にしろ、いつも一時的な満足しか与えてくれません。そして同じ満足を得るためには、よりたくさんの「お金」と「快楽」と「名誉」が必要となるのです。それを「快楽の中毒性」といいますが、人間の欲望というものは、どれだけ追求しても決して満足することはないのです。

パウロの生き方はまったく違っていました。彼は言いました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と。でも実際の彼は、このピリピ人への手紙を書いた時、獄中にいました(1:13)。また折角たて上げたピリピ教会は、後から入ってきた者によって乗っ取られてしまいました(1:17)。どこが「益」なのでしょうか?しかしそれでも彼は「キリストが述べ伝えられているのなら私は喜ぶし、今からも喜ぶことでしょう(1:18)」と告白しているのです。彼にとっての「益」とは、ただ「キリストのすばらしさが現れること(1:20)」だったのです。

私達は本当に「キリストのすばらしさ」を残そうとしているでしょうか?それとも「自分のすばらしさ」を残そうとしているでしょか?見せかけの善行や熱心さ、そういったものは、結局、自分の名を残そうとする「党派心」や「虚栄心」「欲望の追求」なのではないでしょうか?私達は、本当に心から「キリストのすばらしさが現わされること、それが私の切なる願いです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:20-21)」と告白できるでしょうか?

福音にふさわしい生活、それにはいろいろなことが言えるでしょう。聖い生活や、愛の実践、伝道のために一致奮闘する生活(1:27)など。しかし一言でいえば、キリストのように「自分を無にする生活」なのではないでしょうか。◇イエス様は、ご自分を無にして、家畜小屋に生まれ、十字架にかかってくださいました。これが最高の模範なのです。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2章6-8節)