2007年12月8日土曜日

第15回「絶望における訓練」(マタイ14章22-33節)

今回のテーマは「絶望における訓練」ですが、果たしてクリスチャンの生涯は、苦悩や危険、絶望や落胆と無縁でしょうか? いいえそんなことはありません。クリスチャンにも、失望や緊迫、過酷や拷問的な苦しみの瞬間があります。そして自分自身や、自分の愛する者が、生と死の天秤に乗せられることもあるのです。私たちには、それを自分の願う方向に傾ける力はありません。そのために何かをすることも、気を失うことも許されず、ただ神様に向かって祈るほかないのです。

その時、信仰を持たない人はなんと無力でしょうか。祈るべき方を知らないということは、何という孤独でしょうか?助けを求めるべきお方を知らないということは、なんという悲劇でしょうか?主の耳は、私達の叫びが聞こえないほど鈍くはありません。主の御手は、私たちを救えないほど短くはありません。このお方を知り、どんな時にも「主よ助けてください!」と祈ることの出来る人は幸いです。

ペテロはそんな信仰の持ち主でした。彼はただの「信仰の薄い人」ではありません。確かに彼のやり方は、性急で、彼らしく、危なっかしさを含んでいました。しかし彼は少しでもイエス様に近づきたくて、「来なさい」と言われれば、水の上を歩くという危険を冒してでも、イエス様に従いたいと思っていたのです。私達は往々にして、舟の中に黙って座っていた、11人のようではないでしょうか。理にかなったことだけを求め、決してイエス様のために冒険しようとしないのです。

しかしイエス様に従う者は、時に「人生の嵐」に遭遇するのです。聖書にもこのようにあります。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです(ピリピ1:29)」。この言葉に躓いてしまう人もあるかもしれません。怖くなって、自分の「舟」に引き返し、しがみついてしまう人もいるかもしれません。しかし主イエスを愛する者は、それでも自分の舟を降りて、未知の湖面に体重をかけ、一歩一歩進んでいくのです。

イエス様から目を離すときに、恐れが、私達の心を覆い尽くします。ペテロもそうでした。彼は「風を見て、こわくなり、水に沈みかけた」のです。私たちも同じです。困難や試練に会う時に、イエス様から目をそらし、この世の波風ばかりを見てしまう時に、「失望」「落胆」「絶望」という湖に沈んでいってしまうのです。そう考えると、極端な恐れは、やはり不信仰の結果だと言わざるをえません。イエス様に対する畏れがなくなるとき、私達は「人生の嵐」を恐れてしまうのです。

イエス様はそんなペテロの手をつかみこう言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と。それは決して一方的な叱責ではありませんでした。その証拠に、見上げると、そこにはペテロの手をしっかり握っておられる、慈愛に満ちたイエス様のまなざしがあったのです。私たちも同じです。人生の嵐の中でイエス様に「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」といわれてしまうかもしれません。しかしそんな時でも、イエス様の御手は、私達をしっかりと握って、離さないのです。

信仰とはなんでしょうか?それは、自分の力でイエス様の御手をしっかり握ることではありません。そうではなくて、たとえ絶望的な状況の中でも、私たちの手をしっかり握って離さないイエス様の御手を覚え、その愛に信頼し、この方を恐れ、イエス様から目をそらさないことなのです。その時私達の歩みは、試練の中でも決して揺るぐことがありません。

信仰の創始者であり、完成者である
イエスから目を離さないでいなさい。
(ヘブル12章2節)

それは、地のすべての民が、
主の御手の強いことを知り、
あなたがたがいつも、
あなたがたの神、主を恐れるためである。
(ヨシュア記4章24節)