2007年12月8日土曜日

第14回「孤独を通しての訓練」

今回のテーマは「孤独を通しての訓練」ですが、はたして私達は、孤独から何かを学ぶことが出来るのでしょうか?人には、孤独を愛する人や、孤独が苦手な人など、色々いますが、誰一人として「完全な孤独」の中で生きていける人はいません。人間は、読んで字のごとく「人々との間で生きていく存在」だからです。

ある人は、孤独を誤魔化すために、賑やかさを求めます。放蕩息子もそうだったのかもしれません。遠い国に旅立ち、家族や友とも切り離され、本当は孤独だったのかもしれません。だからこそ、その寂しさをまぎらわせるために、お金を湯水のように使い、宴(うたげ)の中に身を置き、自分自身を誤魔化していたのかもしれません。しかし金の切れ目が縁の切れ目、お金が無くなった途端に、友は離れて行き、置かれた現実(本当は孤独な自分)をまざまざと見せつけられたのです。

その時、彼は我に返り「本当の交わり」を求めはじめました。それは、自分のことを誰よりも愛してくれる、お父さんとの交わりでした。それまでは、その愛が自分にとって、それほど重要なことだとは感じていませんでしたし、むしろ「わずらわしい」とさえ感じていました。しかし孤独を通して、彼はその重要性に目を開かれ、父のもとに帰っていったのです。この父こそ「父なる神様」のことなのです。

私たちにも孤独は必要です。この世の賑やかさに心を奪われている間は、「神様との交わり」なんて、それほど重要だとは思えないかもしれません。多くの人は、神とか教会とか、何だか窮屈に感じるのもそのためです。しかしそんな人も、本当の孤独を経験する時に「わたしはあなたを愛している」と言ってくださるお方の存在に気付き始めるのです。そして我に返り、「アバ父(天の父)」のふところに帰っていき、そこで新しい兄弟姉妹の交わり(教会)を経験し始めるのです。

ボンヘッファーはこう言いました(「共に生きる生活」p71)。「この世の作り出す『賑やかさ』の正体とは、驚くべき孤独を作り出すところの陶酔(とうすい)状態である。それはしばらくの間、孤独を忘れさせてくれるかもしれないが、その陶酔状態から覚めれば、以前にも増した孤独が襲ってくる。そして、そのようなことを続けるなら、我々はやがて精神の死へと行き着くのである」と。この精神の死こそ、本当の交わり、つまり父なる神様と兄弟姉妹との、交わりの喪失なのです。

イエス様は、いつも「寂しい所」に退かれました。そして、自分をあえて孤独の中に置き、常に父なる神の細き御声に耳を傾け、一日を始めらました。そして、ただ寂しいところに閉じこもっていないで、多くの人々と触れ合われたのです。だからこそ、イエス様の言葉と行いには「不思議な力」がありました(マタ7:29)。

聖書には「黙っているのに時があり、話をするのに時がある(伝道3:7)」とあります。私たちには、この両方が必要なのです。主の前に黙ることをしない者は、いくら饒舌(じょうぜつ)に語り、おせっかいをやいても、それは、うるさいドラやシンバルのようなものです。しかし反対に、黙ってばかりいて、一人とじこもっていても何も始まりません。神様と兄弟姉妹は、あなたと語り合いたいと待っています。

あなたは主の前に静まっていますか?世的な賑やかさや、メールや長電話によって、本来感じるべき孤独を誤魔化していませんか?そしてますます孤独になっていませんか?◆まずは主の御前で孤独になること。その時、聞こえなかった心の叫びや、主の細きみ声が聞こえてきます。孤独を知るもの同士が集まるときに、真の交わりが生まれるのです。

キリストのことばを、
あなたがたのうちに豊かに住まわせ、
知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、
詩と賛美と霊の歌とにより、
感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
(コロサイ3章16節)