2007年10月4日木曜日

第8回「自己弁護に対する訓練」

いくらジェンダーフリー論者たちが叫ぼうとも、私達はそれぞれ、いつの間にか、何らかの「男らしさ」に関する基準を持っているものです。中でも多いのが「言い訳をしないこと」「男は黙って…」という基準ではないでしょうか。意外かもしれませんが、王に任ぜられた当初のサウルにはこの「男らしさ」がありました。

何かと反面教師とされてしまうサウルですが、彼にも、賞賛に値する良い面がありました。例えば、彼は良家の出で(9:1)、背格好(10:23)においても申し分ありませんでした。しかしそういったことを一切鼻にかけず、謙遜で(9:21)、王に選ばれたことが公言されると「荷物の間に隠れて」しまうほど「控えめな心」の持ち主でした。そして何といっても、彼には感心するほどの「沈黙力」がありました。

よこしまな者たちは、言いました。「この者(この若造)に、どうして我々が救えようか」と。そして、贈り物を持ってこず、サウルをはずかしめたのです。しかしその時、サウルはどうしたでしょうか?彼は何も言い返さず、ただ黙っていたのです。何と立派な態度でしょう!こういった局面で黙っているためには、よほどの強い心と、神様は全てご存知であるという、強い信頼感がなければなりません。

聖書にはこうあります。「人が若い時にくびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。十分そしりを受けよ。主はいつまでも見放してはおられない。主はその豊かな恵みによって、あわれんでくださる。(3:27-31)」と。サウルも最初はそうしていたのです。しかし残念なことに、彼の心は次第に神様から離れてしまいました。その兆候は何だったのでしょう。

二つの出来事がありました。一つはペリシテ人が攻め上ってきた時の事です。彼は民の動揺を静めるために、自分の手でいけにえを捧げてしまいました。それをサムエルに咎められると「だって民が」と弁解しました。またアマレク人との戦いにおいて聖絶すべきものをこっそり取っておいた時の事です。やはりサムエルに見つかると、彼はとっさに「主にいけにえを捧げるためです」と弁解したのです。

私たちも同じ事をしていないでしょうか?神様の御心ではないと知りつつも「この状況においてはしょうがない」と自分に言い訳をし、いとも簡単に信念を曲げてしまう。反対に自分の願望のためには「これも神様のため」「伝道のため」「栄光のため」と神様に言い訳をし、かたくなに自分の意志を押し通すのです。気をつけてください。その小さな自己弁護と妥協から大きな罪と後悔が生まれるのです!

私達はアダムとエバの時代から何も変わっていません。自分自身を正当化するためには、驚くほど「雄弁」になるのです。いやむしろ、「多弁」になるときほど気をつけたほうがよいでしょう。自分でも気付かないうちに理論武装し、何かを正当化しているかもしれません。◆大切なのは、もう一度、神様の前に「静まる」ことです。その時、本当に大切なものが見えてきます。一切の言い訳を捨てて、示された罪は素直に悔い改め、示される道なら大胆に進んで行きたいものです!

造られたもので、
神の前で隠れおおせるものは何一つなく、
神の目には、すべてが裸であり、
さらけ出されています。
私たちはこの神に対して弁明をするのです。
(ヘブル4章13節)

第7回「中傷に対する訓練」

今回のテーマは、「中傷に対する訓練」です。しかし「中傷」とは何のことでしょうか?辞書には「根拠の無い悪口などを言って、他人の名誉を傷つけること」と説明されています。もしかして自分に落ち度があり「悪口」や「陰口」を言われてしまうのなら、じっと唇をかんで、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶことも出来るかもしれません。しかし、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、私達はイエス様が言われるように、「喜びおどる」ことが出来るのでしょうか?

なかなか難しいでしょう。「中傷」されてしまうとき、私達はまず一生懸命「火消し」に奔走しようとするのです。話せば分かってもらえると信じて、自分の身の潔白を証明し、誤解を解こうと、涙ぐましい努力をするのです。しかしなかなかその気持ちは通じません。なぜなら単なる「噂」とは違い、「中傷」には始めから明らかな悪意が存在するので、こちらが騒ぐほど、実は相手の思う壺なのです。

そんな時「復讐心」がわいてきます。権力のある人であれば、力にものを言わせて、相手の口を封じたいと思うかもしれません。また現代では、権力のない人であっても、憂さ晴らしにメールやインタネットなどの力を借りて、相手にとって不利な情報をバラまいてしまうかもしれません。しかしそれらはどれも神様に喜ばれる方法ではありません!聖書にはこう書かれています。「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。復讐はわたしのすることである(ロマ12:19)」と。

ダビデも若い時には失敗しそうになりました。サウルに命を狙われ、心身の疲労もピークに達した頃、ほんの僅かばかりの食べ物を、資産家ナバルに求めたのです。しかしナバルは「ダビデとは一体何者だ?このごろは主人のところを脱走するどれが多い」と冷たく突っ返しました。怒ったダビデは、400人の部下を連れ、ナバルの首を取りに出かけました。しかし賢いアビガイルの必死のとりなしのゆえに、危うく「自分の手で復讐し」「無駄な血を流す」罪から守られたのです。

それから多くの苦難を経てダビデは変えられました。ある時、ナバルの時と同じように、いやもっと口汚く、シムイに罵られました。シムイは石を投げながら、息子アブシャロムに命を狙われているダビデを呪ったのです。当然、部下は「言ってあの首をはねさせてください」と願い出ました。しかしダビデは言いました。「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」と。

どうしてダビデはそういうことが出来たのでしょう?それは多くの苦難を経て、怒りや復讐心さえも「ゆだねる」ことを学んだからです。彼は詩篇の中でこう歌っています。「悪を行なう者に対して腹を立てるな。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して腹を立てるな。怒ることをやめ憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ」と。

中傷にあうとき、私たちがとるべき態度の最高の模範はイエス様です。イエス様は、ご自分には何の非もなかったにもかかわらず、一切弁明せず、ののしり返さず、全てを正しくさばかれる方にお任せになりました。そればかりか、自分を迫害する者のために祈られたのです。これこそ私たちが学ぶべき、中傷に対する訓練です。

愛する人たち。
自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
かえって、善をもって
悪に打ち勝ちなさい。
ローマ12章19、21節

第6回「晩年における訓練」

「白髪は栄光の冠(箴言16章31節)」といいますが、誰もが栄光に満ちた晩年を迎えるわけではありません。栄光に満ちた晩年もあれば、悲惨な晩年もあるのです。その違いはどこにあるのでしょうか?聖書より二人の人物を取り上げ、「人生の訓練」の著者、エドマン博士の言葉を引用しつつ、ともに学びましょう。

「悲惨な晩年」それはエリに見られます。彼は40年間、預言者として働いてきて、もう既に非常に歳をとっていました。主の栄光は彼から去り、主のことばはまれにしか与えられていませんでした。それでも彼は、その職務をずるずると続けなければなりませんでした。理由は色々あるでしょう。二人の息子が信仰から遠く離れてしまったことやサムエルがまだ幼すぎたことなど。しかし根本的には、彼自身がその歳になるまで、後継者の育成など、晩年の備えを全くしてこなかったからです。(サムエルは早くから、預言者学校を設立し、後継者を育成しました。)

エドマン博士はこう言います。「人生の日も傾く頃になると、活動も衰え責任も減少する。疲れを知らぬ30代、働き盛りの40代を過ぎると、思慮分別のある50代、気力の緩みを覚える70代の道にいたる。しかし中にはその現実を認めず、他人にもそう考えさせまいとして、気丈に振舞い、かなり前から全うすることの出来なくなっている自分の地位を、なおも固執しようと努めるのである。そうすることは自分にとっても周りの者にとっても悲しむべきことである(p60)」と。

「美しい心で手放し、晩年に備えることができないのは『もし、これを手放したら、自分は不必要な存在になってしまう』との恐れがあるからです(p63)」。嫁と姑にも同じことが言えるかもしれません。実はこの「恐れ」に勝利することこそ「栄光に満ちた晩年」への鍵なのです。神様は「あなたがたが、しらがになってもわたしは背負う。わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう」と言ってくださるお方です。この方へ信頼することによって、私達は「恐れ」から解放されます。

「栄光に満ちた晩年」それはヨシュアに見られます。神様は彼に言いました。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている」と。そしてヨシュアはその言葉に応え、新しい地へ出て行ったのです。あなたも、今までの地にしがみつこうとするのではなく、最後にもう一つ、何か新しい地に踏み出だすことは出来ないでしょうか?あなたにはまだその「力」が残されています。

人はいつから「老人」と呼ばれるのでしょう?それは新しいものに対する「好奇心」を失ったときからではないでしょうか? 反対に言えば、年は若くても「好奇心」を失っているならば、その人はもはや「老人」なのです。いつになっても「新しい主の御業」「新しい人間関係・出会い」「新しい奉仕」「新しいビジョン」に対してオープンでいたいものです。その人はいつまでも瑞々しく、若々しいのです!

そして本当に何も出来なくなるとき、私たちには、なおも残された奉仕があります。それは「祈り」です。それまでの人生、あまりにも忙しすぎて「祈り」に専念できなかったかもしれません。しかしこの「祈り」こそ、人生最後に残された「最高の奉仕」なのです。祈りに専念し、幼子イエスに出会ったシメオンとアンナ、彼らの白髪は、文字通り「栄光の冠」のごとく、ひかり輝いていたことでしょう!

また、アセル族のパヌエルの娘で
女預言者のアンナという人がいた。
この人は非常に年をとっていた。
彼女はやもめになり、八十四歳になっていた。
そして宮を離れず、
夜も昼も、断食と祈りをもって
神に仕えていた。
(ルカ2:23)

第5回「決断における訓練」

以前も私達は、同じテーマについて学んだことがありますが、もう一度改めて、このテーマについて学びたいと思います。それは、このテーマがそれほど大事なことだからです。もしかしたら、私達は目の前の決断が、取るに足らない小さなものだと感じているかもしれません。しかし私達は、もう二度とその決断の岐路に戻ってくることは出来ないし、結果次第で、明日は全く違ったものとなってしまうのです。人生に「ビデオの逆再生」はありません。この決断が大切なのです。

決断における、悪いお手本は「ロト」です。彼はアブラハムと別れて「右か左か」を選び取るとき、ただ「その土地が潤っているかどうか」を基準に選んでしまったのです。おそらく、ソドムとゴモラの悪い噂は、彼らの耳にも入っていたでしょう。その土地で子育をすることが、子供達の信仰形成上、どれほど悪影響を及ぼすかは容易に想像できたはずです。しかし彼はそんなことお構いなしで、ただ目に好ましいほうを選んだのです。その決断が、後に悲劇を招きました(19章)。

決断においては、主の栄光を基準にすべきです。カーナビをご存知でしょう。一度目的地を設定すると、どんなにわき道にそれても、その目的地へ連れ戻そうとするのです。クリスチャンの人生も似ています。私達の人生の目的は、クリスチャンになった瞬間から「自分の成功」ではなく「主の栄光」に設定されているのです。時にはわき道にそれてしまうこともあるでしょう。道を見失ってしまうこともあるでしょう。しかし、いつでも私達はその目的を求めて進んでいるのです。

しかし、事はそんなに単純ではありません。実際の人生は、カーナビよりもっと複雑です。聖書には「右に行くにも左に行くにも、あなたは耳の後ろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」と約束されていますが、いつでも「右か左か」はっきりと答えが示されるわけではありません。どの学校に進学すべきか、どこに就職するべきか、どこに入院する(させる)べきか、誰と結婚するべきか、私達は祈りつつも、手探りで進んでいかなくてはならない時だってあるのです。

ヨブはこう言いました。「ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、後ろに行っても、神を認めることができない。左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。しかし神は、私の行く道を知っておられる。神は、私を調べられる。私は金のように、出て来る。(23:8-10)」と。「右か左か」私たちには分かりません。しかし神様は、最善の道をご存知なのです。

つまり一番大切なのは、この「主」に導かれて一歩一歩あゆむ、ということです。イスラエルの民は40年間「火の柱」「雲の柱」に導かれて荒野を旅しました。そして、それなくしては一歩も前には進まなかったのです。「火」と「雲」とは聖書で「神の臨在」の象徴です。主と深く交わり、その臨在を感じつつ、一歩一歩主と共に歩んで行く、その毎日の積み重ねの先に「約束の地」が待っているのです。

世の人々は、占いなどによって、手っ取り早く「右か左か」を知ろうとします。しかしクリスチャンの信仰は、そんなインスタントなものではありません。おみくじのように聖書を読むのではなく、毎日、誠実に御言葉を心に蓄え、主に従っていく事が大切なのです。

あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。
(だから)、主の前に静まり、
耐え忍んで主を待て。
(詩篇37篇5,7節 要約)

2007年10月3日水曜日

第4回「暗黒における訓練」

誰も「私は絶対につまずかない」とは言えないし、もしそう思うなら、その人こそ自分の足をすくわれないように気をつける必要があります。ペテロがそのようなタイプの人間でしたが、彼は言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:31,33)」と。しかし、それほど自信満々であったペテロが、その後すぐにつまずいてしまったのです。

聖書にははっきりと「つまずきが起こるのは避けられない(ルカ17:1)」とあります。とはえ言え、やはり「つまずきを起こさせる者は忌まわしい」し、「わたし(イエス・キリスト)につまずかないものは幸い」なのです。私達は、人をつまずかせないようにするのはもちろんのこと、自分自身も、つまずいて、信仰の失格者となってしまわないように(Ⅰコリ9章27節)、常に気をつけなければなりません。

クリスチャンといえども「死の影の谷(詩篇23篇4節)」を歩くことはあります。それは、いつ果てるとも分からず、神が共におられないかのように思われる経験です。健康が損なわれ、友人からは見放され、悪口も言われ、日の光は暗く、夜はあまりにも長く、夜明けは永遠に到来しないかのように感じます。そしてついには疲れ果て、ヨブのように、一刻も早く墓石の下に憩いを得たいと思うような経験です。

そんな時、悪魔はこう追い討ちをかけます。「神は恵むことを忘れてしまったのだ」「お前のことなどかまっておられないのだ」「お前がこの暗黒の中にいるのは、神の御心から外れたからだ。神が人を暗黒に導かれるはずはない」「お前は神に従わなかったから捨てられたのだ」と。それは自分の心の声であったり、心無い人からの視線や、言葉であるかもしれません。それが私たちを更に苦しめます。

しかし、ヨブは最後の最後までつまずきませんでした!それどころか一連の試練を通して、更に信仰を深められたのです。確かにヨブは、試練の前から素晴らしい信仰を持っていました。どんな災いが降りかかってきても、「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白することが出来ました。しかし、まだ何かが欠けていました。

それは神様との生きた交わりです。交わりを欠いた意志や知識だけの信仰は、ヨブの友人たちのような冷たい信仰です。彼らは先祖から受け継いだ「聞きかじった宗教」を振りかざし、「君が何か罪を犯したから、こんな目に…」とヨブを責めました。そのような「浅い信仰理解」は、ヨブのような試練の中にいる人にとって何の助けにもならないばかりか、かえって余計なお世話となってしまいます。

ですがヨブは試練を通し、この神様のとの交わりを回復しました。その時、彼はこう言いました。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし今、この目であなたを見ました」と。何と試練を通し、ヨブは神様を再発見したのです。そして創造主の前で、自分は被造物に過ぎず、神様のなさることには間違いがないことを、理屈ぬきで信じられるようになったのです。◆この「暗黒における訓練」はヨブにとって「益」となりました。なぜなら、それが信仰によって、彼の「神様理解」に結び付けられたからです。試練の只中で、新たに神様に出会った者は、本当の意味で、人を生かし、慰める者とされるのです。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
ルカ22章32節