2007年10月3日水曜日

第4回「暗黒における訓練」

誰も「私は絶対につまずかない」とは言えないし、もしそう思うなら、その人こそ自分の足をすくわれないように気をつける必要があります。ペテロがそのようなタイプの人間でしたが、彼は言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:31,33)」と。しかし、それほど自信満々であったペテロが、その後すぐにつまずいてしまったのです。

聖書にははっきりと「つまずきが起こるのは避けられない(ルカ17:1)」とあります。とはえ言え、やはり「つまずきを起こさせる者は忌まわしい」し、「わたし(イエス・キリスト)につまずかないものは幸い」なのです。私達は、人をつまずかせないようにするのはもちろんのこと、自分自身も、つまずいて、信仰の失格者となってしまわないように(Ⅰコリ9章27節)、常に気をつけなければなりません。

クリスチャンといえども「死の影の谷(詩篇23篇4節)」を歩くことはあります。それは、いつ果てるとも分からず、神が共におられないかのように思われる経験です。健康が損なわれ、友人からは見放され、悪口も言われ、日の光は暗く、夜はあまりにも長く、夜明けは永遠に到来しないかのように感じます。そしてついには疲れ果て、ヨブのように、一刻も早く墓石の下に憩いを得たいと思うような経験です。

そんな時、悪魔はこう追い討ちをかけます。「神は恵むことを忘れてしまったのだ」「お前のことなどかまっておられないのだ」「お前がこの暗黒の中にいるのは、神の御心から外れたからだ。神が人を暗黒に導かれるはずはない」「お前は神に従わなかったから捨てられたのだ」と。それは自分の心の声であったり、心無い人からの視線や、言葉であるかもしれません。それが私たちを更に苦しめます。

しかし、ヨブは最後の最後までつまずきませんでした!それどころか一連の試練を通して、更に信仰を深められたのです。確かにヨブは、試練の前から素晴らしい信仰を持っていました。どんな災いが降りかかってきても、「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白することが出来ました。しかし、まだ何かが欠けていました。

それは神様との生きた交わりです。交わりを欠いた意志や知識だけの信仰は、ヨブの友人たちのような冷たい信仰です。彼らは先祖から受け継いだ「聞きかじった宗教」を振りかざし、「君が何か罪を犯したから、こんな目に…」とヨブを責めました。そのような「浅い信仰理解」は、ヨブのような試練の中にいる人にとって何の助けにもならないばかりか、かえって余計なお世話となってしまいます。

ですがヨブは試練を通し、この神様のとの交わりを回復しました。その時、彼はこう言いました。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし今、この目であなたを見ました」と。何と試練を通し、ヨブは神様を再発見したのです。そして創造主の前で、自分は被造物に過ぎず、神様のなさることには間違いがないことを、理屈ぬきで信じられるようになったのです。◆この「暗黒における訓練」はヨブにとって「益」となりました。なぜなら、それが信仰によって、彼の「神様理解」に結び付けられたからです。試練の只中で、新たに神様に出会った者は、本当の意味で、人を生かし、慰める者とされるのです。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
ルカ22章32節