2007年10月4日木曜日

第7回「中傷に対する訓練」

今回のテーマは、「中傷に対する訓練」です。しかし「中傷」とは何のことでしょうか?辞書には「根拠の無い悪口などを言って、他人の名誉を傷つけること」と説明されています。もしかして自分に落ち度があり「悪口」や「陰口」を言われてしまうのなら、じっと唇をかんで、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶことも出来るかもしれません。しかし、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、私達はイエス様が言われるように、「喜びおどる」ことが出来るのでしょうか?

なかなか難しいでしょう。「中傷」されてしまうとき、私達はまず一生懸命「火消し」に奔走しようとするのです。話せば分かってもらえると信じて、自分の身の潔白を証明し、誤解を解こうと、涙ぐましい努力をするのです。しかしなかなかその気持ちは通じません。なぜなら単なる「噂」とは違い、「中傷」には始めから明らかな悪意が存在するので、こちらが騒ぐほど、実は相手の思う壺なのです。

そんな時「復讐心」がわいてきます。権力のある人であれば、力にものを言わせて、相手の口を封じたいと思うかもしれません。また現代では、権力のない人であっても、憂さ晴らしにメールやインタネットなどの力を借りて、相手にとって不利な情報をバラまいてしまうかもしれません。しかしそれらはどれも神様に喜ばれる方法ではありません!聖書にはこう書かれています。「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。復讐はわたしのすることである(ロマ12:19)」と。

ダビデも若い時には失敗しそうになりました。サウルに命を狙われ、心身の疲労もピークに達した頃、ほんの僅かばかりの食べ物を、資産家ナバルに求めたのです。しかしナバルは「ダビデとは一体何者だ?このごろは主人のところを脱走するどれが多い」と冷たく突っ返しました。怒ったダビデは、400人の部下を連れ、ナバルの首を取りに出かけました。しかし賢いアビガイルの必死のとりなしのゆえに、危うく「自分の手で復讐し」「無駄な血を流す」罪から守られたのです。

それから多くの苦難を経てダビデは変えられました。ある時、ナバルの時と同じように、いやもっと口汚く、シムイに罵られました。シムイは石を投げながら、息子アブシャロムに命を狙われているダビデを呪ったのです。当然、部下は「言ってあの首をはねさせてください」と願い出ました。しかしダビデは言いました。「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」と。

どうしてダビデはそういうことが出来たのでしょう?それは多くの苦難を経て、怒りや復讐心さえも「ゆだねる」ことを学んだからです。彼は詩篇の中でこう歌っています。「悪を行なう者に対して腹を立てるな。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して腹を立てるな。怒ることをやめ憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ」と。

中傷にあうとき、私たちがとるべき態度の最高の模範はイエス様です。イエス様は、ご自分には何の非もなかったにもかかわらず、一切弁明せず、ののしり返さず、全てを正しくさばかれる方にお任せになりました。そればかりか、自分を迫害する者のために祈られたのです。これこそ私たちが学ぶべき、中傷に対する訓練です。

愛する人たち。
自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
かえって、善をもって
悪に打ち勝ちなさい。
ローマ12章19、21節