2007年10月4日木曜日

第6回「晩年における訓練」

「白髪は栄光の冠(箴言16章31節)」といいますが、誰もが栄光に満ちた晩年を迎えるわけではありません。栄光に満ちた晩年もあれば、悲惨な晩年もあるのです。その違いはどこにあるのでしょうか?聖書より二人の人物を取り上げ、「人生の訓練」の著者、エドマン博士の言葉を引用しつつ、ともに学びましょう。

「悲惨な晩年」それはエリに見られます。彼は40年間、預言者として働いてきて、もう既に非常に歳をとっていました。主の栄光は彼から去り、主のことばはまれにしか与えられていませんでした。それでも彼は、その職務をずるずると続けなければなりませんでした。理由は色々あるでしょう。二人の息子が信仰から遠く離れてしまったことやサムエルがまだ幼すぎたことなど。しかし根本的には、彼自身がその歳になるまで、後継者の育成など、晩年の備えを全くしてこなかったからです。(サムエルは早くから、預言者学校を設立し、後継者を育成しました。)

エドマン博士はこう言います。「人生の日も傾く頃になると、活動も衰え責任も減少する。疲れを知らぬ30代、働き盛りの40代を過ぎると、思慮分別のある50代、気力の緩みを覚える70代の道にいたる。しかし中にはその現実を認めず、他人にもそう考えさせまいとして、気丈に振舞い、かなり前から全うすることの出来なくなっている自分の地位を、なおも固執しようと努めるのである。そうすることは自分にとっても周りの者にとっても悲しむべきことである(p60)」と。

「美しい心で手放し、晩年に備えることができないのは『もし、これを手放したら、自分は不必要な存在になってしまう』との恐れがあるからです(p63)」。嫁と姑にも同じことが言えるかもしれません。実はこの「恐れ」に勝利することこそ「栄光に満ちた晩年」への鍵なのです。神様は「あなたがたが、しらがになってもわたしは背負う。わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう」と言ってくださるお方です。この方へ信頼することによって、私達は「恐れ」から解放されます。

「栄光に満ちた晩年」それはヨシュアに見られます。神様は彼に言いました。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている」と。そしてヨシュアはその言葉に応え、新しい地へ出て行ったのです。あなたも、今までの地にしがみつこうとするのではなく、最後にもう一つ、何か新しい地に踏み出だすことは出来ないでしょうか?あなたにはまだその「力」が残されています。

人はいつから「老人」と呼ばれるのでしょう?それは新しいものに対する「好奇心」を失ったときからではないでしょうか? 反対に言えば、年は若くても「好奇心」を失っているならば、その人はもはや「老人」なのです。いつになっても「新しい主の御業」「新しい人間関係・出会い」「新しい奉仕」「新しいビジョン」に対してオープンでいたいものです。その人はいつまでも瑞々しく、若々しいのです!

そして本当に何も出来なくなるとき、私たちには、なおも残された奉仕があります。それは「祈り」です。それまでの人生、あまりにも忙しすぎて「祈り」に専念できなかったかもしれません。しかしこの「祈り」こそ、人生最後に残された「最高の奉仕」なのです。祈りに専念し、幼子イエスに出会ったシメオンとアンナ、彼らの白髪は、文字通り「栄光の冠」のごとく、ひかり輝いていたことでしょう!

また、アセル族のパヌエルの娘で
女預言者のアンナという人がいた。
この人は非常に年をとっていた。
彼女はやもめになり、八十四歳になっていた。
そして宮を離れず、
夜も昼も、断食と祈りをもって
神に仕えていた。
(ルカ2:23)