2007年10月4日木曜日

第5回「決断における訓練」

以前も私達は、同じテーマについて学んだことがありますが、もう一度改めて、このテーマについて学びたいと思います。それは、このテーマがそれほど大事なことだからです。もしかしたら、私達は目の前の決断が、取るに足らない小さなものだと感じているかもしれません。しかし私達は、もう二度とその決断の岐路に戻ってくることは出来ないし、結果次第で、明日は全く違ったものとなってしまうのです。人生に「ビデオの逆再生」はありません。この決断が大切なのです。

決断における、悪いお手本は「ロト」です。彼はアブラハムと別れて「右か左か」を選び取るとき、ただ「その土地が潤っているかどうか」を基準に選んでしまったのです。おそらく、ソドムとゴモラの悪い噂は、彼らの耳にも入っていたでしょう。その土地で子育をすることが、子供達の信仰形成上、どれほど悪影響を及ぼすかは容易に想像できたはずです。しかし彼はそんなことお構いなしで、ただ目に好ましいほうを選んだのです。その決断が、後に悲劇を招きました(19章)。

決断においては、主の栄光を基準にすべきです。カーナビをご存知でしょう。一度目的地を設定すると、どんなにわき道にそれても、その目的地へ連れ戻そうとするのです。クリスチャンの人生も似ています。私達の人生の目的は、クリスチャンになった瞬間から「自分の成功」ではなく「主の栄光」に設定されているのです。時にはわき道にそれてしまうこともあるでしょう。道を見失ってしまうこともあるでしょう。しかし、いつでも私達はその目的を求めて進んでいるのです。

しかし、事はそんなに単純ではありません。実際の人生は、カーナビよりもっと複雑です。聖書には「右に行くにも左に行くにも、あなたは耳の後ろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」と約束されていますが、いつでも「右か左か」はっきりと答えが示されるわけではありません。どの学校に進学すべきか、どこに就職するべきか、どこに入院する(させる)べきか、誰と結婚するべきか、私達は祈りつつも、手探りで進んでいかなくてはならない時だってあるのです。

ヨブはこう言いました。「ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、後ろに行っても、神を認めることができない。左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。しかし神は、私の行く道を知っておられる。神は、私を調べられる。私は金のように、出て来る。(23:8-10)」と。「右か左か」私たちには分かりません。しかし神様は、最善の道をご存知なのです。

つまり一番大切なのは、この「主」に導かれて一歩一歩あゆむ、ということです。イスラエルの民は40年間「火の柱」「雲の柱」に導かれて荒野を旅しました。そして、それなくしては一歩も前には進まなかったのです。「火」と「雲」とは聖書で「神の臨在」の象徴です。主と深く交わり、その臨在を感じつつ、一歩一歩主と共に歩んで行く、その毎日の積み重ねの先に「約束の地」が待っているのです。

世の人々は、占いなどによって、手っ取り早く「右か左か」を知ろうとします。しかしクリスチャンの信仰は、そんなインスタントなものではありません。おみくじのように聖書を読むのではなく、毎日、誠実に御言葉を心に蓄え、主に従っていく事が大切なのです。

あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。
(だから)、主の前に静まり、
耐え忍んで主を待て。
(詩篇37篇5,7節 要約)