2007年7月24日火曜日

第3回「敢行の訓練」

子供の成長において大切なことは何でしょう?色々なことが言えると思いますが、中でも「達成感」を味わうことは、子供にとってとても重要です。ことわざにも「かわいい子には旅をさせよ」とありますが、ある程度の年齢になった子を持つ親は、何にでもうるさく口を挟み、何でもしてあげるのではなく、精神的なサポートはしっかりしつつも、時には思い切って任せ、子供が自分で「これをやり遂げた!」という達成感を味あわせるよう、導いてあげることが大切なのです。

信仰においても同じことが言えます。嫌なこと、辛いことから逃げてばかりいても、一向に信仰は成長しません。前回も学んだ様に、危険には、避けるべきものと、立ち向かうべきものとがありますが、立ち向かうべきものにはしっかり立ち向かい、それに対して「祈り」と「御言葉」によって勝利し、信仰の達成感を味わっていくとき、私たちと神様との結びつきはますます強固なものとなるのです。

しかし実際はそう簡単にはいきません。人生の旅路には様々な障害が横たわっているのです。イスラエルにおいてもそうでした。彼らは約束の地カナンを目指して荒野を旅していましたが、数々の困難を乗り越え、ようやくカナンの目と鼻の先まで来たとき、そこにはネフィリム人という巨人が住んでいたのです!彼らはそれを聞いてガッカリし、ヨシュアとカレブに怒りを燃やし、殺そうとしました。

本当の巨人は私達の心の中にも住んでいるのです。戦いにおいて、最も危険なのは、敵の中にではなく、味方の中に、恐怖におののく者がいることだと聞いたことがあります。同じように信仰の戦いにおいても、本当の敵は、試練そのものの中にあるのではなく、闘わずして白旗をあげてしまう、私達の心にあるのかもしれません。イスラエルは、早々に「さぁエジプトに帰ろう」と降参してしまいました。

そんな全会衆に向かい、ヨシュアとカレブは言いました!「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない」。敢行しようとする者、および、不可能を可能にする者は、巨人ではなく主を見上げる。その時私たちは、主よりの力を受け、なおも前進することが出来るのです!

3Dクリスチャンという言葉があるそうです。「だって」「でも」「どうせ」を口癖としているのです。私達の警戒心は、ヨシュアの声を聞いても「でも、もっと慎重に、検討してみよう」とか「神様だって、熱狂を嫌われる」と言うかもしれない。確かにそれは正しい。しかし慎重過ぎる者は、もっともらしい言い分けばかりをし、結局何も行動もせず、達成感も味わわず、信仰はいつまでも幼子のままなのです。

聖書の原則によれば、主の御業はいつ起こるのでしょう?それは、不可能の川の「水ぎわ」に足を浸すときであり、道がないところに思い切って足を踏み入れるときなのです。その時、川はせき止められ、道は開かれます。主は今日も言われます「雄々しくあれ、強くあれ」と。この主が、私たちと共におられるのです!

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。
恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、
あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(詩篇37:5)