2007年7月24日火曜日

第1回 「訓練の重要性」

現代社会において「訓練」という言葉はまったく人気がなくなってしまいました。昔ながらの厳しい教育方は、人格の正しい形成をゆがめるという、進歩的な教育方の影響で行われなくなってしまいました。代わって子供の個性や自主ばかりが尊重され、親は子を従えるどころか、子に従い、振り回され、疲れきっているのです。厳しさが失われてた現代において、家庭の温かさは失われ、崩壊し、親の権威は失墜し、教師の指導力は軽んじられ、社会全体が傾き始めているのです。

何がおかしいのでしょうか?それは「人間観」が間違っているのです。先に紹介した進歩的な教育法とは、基本的人間が良いものであると捉え、なるべく生まれもった良いものを、そのまま引き出そうとしているのです。しかし良いことは言っているものの、大切な何かを見落としています。それは人間の罪です。聖書には、私たちはみな、生まれながら御怒りを受けるべき子であるといわれています(エペソ2:3)。人間にはこの罪があるから、時には厳しい訓練と教育が必要なのです。子供の自主性に任せていたら、その子はきっと、親の悩みとなるでしょう。

しかし人が人を懲らしめてはいけません。聖書には「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる(箴言13:24)」とありますが、同時に「父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい(エペソ6:4)」とも書かれています。親もまた子供と同じ罪人なのです。そういった謙遜さを持ちつつ、神を恐れ、決して自分本位に、感情的になって子供を戒めることないよう、慎重にならなければなりません。

本当の懲らしめは、主が与えられます。御言葉には「肉の父親は…自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして懲らしめる(ヘブル12:10)」とあります。神様は、私たちのことを最も良く知っておられる方です。その神様の凝らしめは、私たちに対する「まったき愛」から出ています。そして、もしそれに耐えるなら私たちは聖められ、「平安な義の実(ヘブル12:11)」を結ぶことが出来るのです。

また主の懲らしめは、受け取る者の心構えによって、益にも害にもなります。もし私たちが、人生の試練に会うとき、たとえ理解できなくても、神様の愛と摂理を、信仰によって認め、それを受け入れるなら、その懲らしめが「人生の訓練」となり、私達は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた者(ヤコブ1:4)」とされるのです。しかし、ただ神を恨み、神の愛を疑い、つぶやくなら、その試練は、私達の益にならないばかりか、私たちの心はどんどん神様から離れてしまうのです。

いよいよ始まりです。これから私達は少しずつ、神様がどのように私たちを訓練してくださるのか、学んでいきたいと思います。この学びを通して、今まで経験してきた「人生の訓練」の意味を発見し、もう一度整理することが出来ますように。そしてこれからの「人生の訓練」に備えることが出来ますように。祈りつつ。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、
かえって悲しく思われるものですが、
後になると、これによって訓練された人々に
平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12章11節)