2007年7月24日火曜日

第2回「危険に対する訓練」

人生には様々な「危険」がありますが、大きく分けて二つに分けることが出来ます。一つはなるべく「避けるべき危険」です。自分の不注意によって招いてしまう危険がそれに当りますが、不摂生からくる健康の危険や、無計画な借金による経済的な危険、また無謀な運転による生命の危険などです。これらは本来避けるべきですし、避けることの出来る危険です。身から出た錆を神様や悪魔のせいにしてはいけません。しかし人生には勇敢に「立ち向かうべき危険」もあるのです。

それは主の栄光のための「危険」です。ネヘミヤは、ペルシヤの王アルタシャスタの献酌官でした。何の不自由もなかったのです。しかし彼はエルサレムの悲惨なありさまを聞き、民がそしられていることを聞き、それは神様がそしられているも同然であると心を痛め「城壁再建」の大事業に乗り出したのです。隣国が黙っているはずがないことは分かっていました。しかしたとえ危険を冒してでも、彼は御名の栄光のために立ち上がらざるを得なかったのです(参 エステル4:13-14)。

主のために立ち上がるとき、主の敵も立ち上がります。聖書には、こう説明されています。「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです(ヨハネ17:14)」と。逆に言えば、主の御言葉に従わず、立ち上がるべきときにも、あぐらをかいたままでいたら、世からは憎まれないし、敵も立ち上がらないということです。しかしそれでは、本当の勝利も、平安も祝福もないのです。

敵は執拗(しつよう)に「どこかで会見しよう」「話し合おう」と誘ってきました。しかしその魂胆(こんたん)は何だったのしょう?エドマン博士はこう言います。「敵はもっともらしい理由をつけて『話し合いましょう』『意見を聞かせてください』と誘ってきます。しかしどんなに話し合い、説明しても無駄です。なぜなら彼らは最初から聞く耳を持っておらず、何とか自分のペースに持ち込み、相手を言い負かし、恥をかかせることしか考えていないからです。もし彼らが本当に相手の意見を知りたいと思っているのであれば、自分から聞きに来るはずである。(P23)」

その誘いに対するネヘミヤの返答は明快でした。彼は言いました「私は大工事をしているから下って行けない。私が工事をそのままにして、あなたがたのところへ下って行ったため、工事が止まるようなことがあってよいものだろうか(6:3)」私たちも同じです。毒々しい議論にノコノコ出て行くべきでありません!火に油を注いでしまいます。陰謀に対する最善の策は「無視」です。私達は自分の仕事に熱中しているべきであって、議論に夢中になるべきではありません(Ⅰテモ1:6)。

御名のための危険から逃げ出してはいけません。私達は危険の中でも、主への従順を貫く時に本当の自由を得るのです。救われたらからと言って、自分だけ天国に行くことにあぐらをかいている者は、もう既に命を失っています。本当の敵は、人を恐れて行動しない私達の中にあるのです。◆それと同時に、陰謀の危険からは、身を避けなさい!彼らに付き合っても、何の益もありません。不用意に関わるなら、飛んで火に入る夏の虫、自らにとんでもない災いを招いてしまいます。

私は大工事をしているから下って行けない。
私が工事をそのままにして、あなたがたのところへ下って行ったため、
工事が止まるようなことがあってよいものだろうか。(ネヘミヤ6:3)

愚かな議論…を避けなさい。それらは無益で、無駄なものです。(テトス3:9)