2008年6月22日日曜日

第29回「疑いについての訓練」 マタイ11章1-6節

今日のテーマは「疑い」です。一口に「疑い」といっても、それは二つに分類できます。一つは、良く知りもせず、求めもしない人が、頭ごなしに決め付けるところの疑いです。でもそれは本当の「疑い」ではありません。信じたこともない人に、どうして「疑う」ことが出来るでしょうか?それはむしろ「先入観」や「偏見」と言ったほうが適切だと思います。今日学びたいのは、もう一つの「疑い」です。それは本気で信じ、求めた人とのみが感じるところの「疑い」です。言い換えれば「神に対する真摯な問い」とも言うことができるのではないでしょうか。

イエス様は十字架上でこう祈られました。「わが神、わが神、どうしたわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)」と。ある人は誤解し「イエスは『神の子』ではなかったから最期に神を疑ったんだ」と言います。しかしそれは間違いです。イエス様は父なる神様と太い絆で結ばれ、「ひとつ」であったからこそ、十字架上で私たちの罪を背負い、父との断絶を味わった時、初めてこのように「真摯に問うた」のです。根底にあったのは「不信仰」ではなく「揺るがない愛」でした。

しかしトマスの場合は違っていました。彼は「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません(ヨハネ20:25)」と言いました。これは明らかに、彼の不信仰から生まれた疑いでした。ですからイエス様も、彼にははっきり「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ずに信じる者は幸いです(27-29)」と言われたのです。

バプテスマのヨハネの感じた「疑い」はどちらだったのでしょう?彼は弟子を通じてこう訊ねました。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも別の方を待つべきでしょうか(3)」。ある人は長い幽閉生活の中で、ヨハネは不信仰に陥ったと言います。でもそんな簡単な言葉では片付けられません。彼は「キリストこそ『世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)』です」との確信を持ち続けていました。だからこそ「いつそれが明らかになるのですか」と「真摯に問うて」いたのです。

彼の問にイエス様は何と答えたでしょうか。イエス様はただ一言だけこう答えられました。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい(4)」と。それで十分だったのです。なぜなら「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、…死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられている」その有様は、イザヤが預言した通りだったからです(35:5-6)。

イエス様は、ヨハネに「確信を捨てず、御言葉に留まり続けなさい」とのサインを送られたのです。そしてヨハネはそれをキャッチし、信仰に留まり続けたのです。脅されても「死に至るまで忠実(黙示2:10)」でした。ある人はヨハネの悲惨な最期を見て「犬死だった」と評するかもしれません。しかしイエス様のために「道をまっすぐに整える(マルコ1:2)」使命に徹した彼の人生は、最高に幸せだったのではないでしょか?彼は天において間違いなく「いのちの冠」をいただいているのです(11~)!

あなたは疑いを感じていますか?だとすれば、その「疑い」は何を見ても何を聞いても解決されることはないでしょう。結局心を裸にし真摯に神様に問いかけ、御言葉に留まり続けるしかないのです。そうすることによって私達はジメジメした疑いの沼から救われるのです。疑いは更なる疑いしか生みません。しかし信仰は勇気と希望を生み出すのです!

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
(ヘブル10章35-36節)