2008年6月22日日曜日

第28回「権力に対する訓練」 マタイ20章17-28節

「ロード・オブ・ザ・リング」という映画を知っているだろうか?一つの指輪を巡る話なのだが、その指輪を手に入れた者は、世界を支配できる「力」を手に入れることができるのである。しかしその指輪を手に入れたのは、そんな野望とは全く関係のない、純真無垢な一人の少年(フロド)であった。でも彼は、その指輪を手に入れた瞬間から、だんだんと心を蝕まれ、芽生える野心と正義感の間で、深い葛藤を味わうことになる。私はその指輪と「権力」が非常に似ていると思う。

あなたは「権力」など要らないと考えるでしょうか?もしそうなら、まだまだあなたは自分のことを(いや人間そのものを)知らな過ぎる。「出るくいは打たれる日本」ではそういう声も多いかもしれませんが「権力への渇望」は私たちが思う以上に根深いものです。求めていないようで、喉から手が出るほど求めており、いざその権力を手にすると、どんな小さな権力でも、私達はバランスを失ってしまう。

その点、ヤコブとヨハネ、彼らの母は正直すぎました。お母さんは「御国で、息子のひとりが右、もうひとりが左に座る」ことを願いました。つまり「天国での№1と№2」を願ったのです。しかし彼らは自分達が何を求めているのか分かっていませんでした。彼らはイエス様が言われた「人の子がその栄光の座に着く時、あなたがたは十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばく(19:28)」との言葉を勘違いし「地上おける王国」の「主要大臣ポスト」を願っていたのです。

それを聞いて他の10人は腹を立てました。なぜでしょうか?実は彼らも同じことを願っていたからです(18:1-6)。彼らの間には普段から出世争いが渦巻いており、それが隠せないところまでヒートアップしていました。何ということでしょうか!イエス様はたった今「3度目の受難告知」をされたばかりなのです(18-19)。それなのに彼らは「自分の出世」のことで頭がいっぱいで喧嘩をしていたのです。

そんな彼らにイエス様はやさしく語られました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい(26-27)」と。イエス様は、彼らの「偉くなりたい」「人の先に立ちたい」という願いを頭ごなしに否定されず、そういう願望が人間の内にあることを認めた上で、その願いを良いことのために用いなさいと教えられました。つまり「リーダーになるな」ではなく、「立派なリーダーになりなさい」と教えられたのです。そこが単なる禁欲主義と違う点です。

エドマン博士はこう指摘します。「私達の大部分の者は『従う者』である。しかしながら、ある人々は学校や教会、職場や社会において『指導的な立場』にならなければならない。それ自体は悪いことではない。ただ彼らには、与えられた権力を自己の利益のために用いず、決して威張らず、人を支配しないことが求められる。むしろ愛と謙遜な心で、指導の任につかなければならない」(291-292意訳)

立派なリーダーとはどのような存在でしょうか。その完全な模範はイエス様です。イエス様は「仕えるものの姿をとり、ご自分を無にし、実に十字架の死にまでも従われ」ました(ピリピ2章)。◆そのような生き方は、リーダーだけに求められるものではありません。イエス様は「私が足を洗ったのですから、あなた方も互いに足を洗い合うべきです」と教えられました(ヨハネ13:14)。キリストの共同体(教会)は「仕えあう共同体」なのです!

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、
みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、
あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、
仕えるためであるのと同じです。
マタイ20章26-28節(要約)