2008年2月27日水曜日

第19回「疲労困憊に対する訓練」Ⅰ列王記19章

本日のテーマは「疲労困憊に対する訓練」ですが、人生には「山」もあれば「谷」もあります。それはクリスチャンとて例外ではありません。恵みの高嶺を歩むこともあれば、霊的スランプに陥ったり、死の陰の谷を歩んだりすることもあるのです。そしてそれらはよく、立て続けに私たちを襲います。エリヤの人生を見る時に、そのことが顕著に現れています。彼はバアルの預言者との直接対決で、劇的な勝利を収めました。しかしその直後に「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」と死を願っているのです。いったい何がおきたのでしょうか?

疲労困憊の意味を辞書で調べてたら「からだや頭を使い過ぎたり空腹の度が過ぎたりした結果、肉体的・精神的に持続力がなくなる状態」とありました。確かにこの時のエリヤは疲労困憊していたのでしょう。あのカルメル山において450人のバアルの預言者を相手に孤軍奮闘したことは、想像を絶する緊張とエネルギー、プレッシャーとストレスだったでしょう。しかもやっと勝利したのに事態は何も変わっていなかったのです。イゼベルは依然自分の命をつけ狙い「あすの今頃までに」は殺すというのです。エリヤにはもう戦う気力が残されていませんでした。

しかしそれ以上にエリヤを疲れさせたのはイスラエルの民の態度でした。彼らは確かにカルメル山での大勝利を見て「主こそ神です。主こそ神です。」と主に立ち返りました。しかしエリヤの命が狙われている今、彼らは何も言わず、立ち上がろうともしないのです。エリヤの怒り、苛立ちは、アハブやイゼベルに対してよりも、そんなイスラエルの人々に向けられていたのです。その証拠にエリヤは、主に二度も「イスラエルの人々は…私の命をねらっています(10,14)」と訴えています。彼は自分がこの民のためにしてきたことが無駄だったと嘆いているのです。

そうして彼は、生きる気力を失ってしまいました。心身の疲れに、自分のしてきたことが無駄だったという精神的な落胆、それに加えて、消えることのないプレッシャー、不安、孤独…。もしかしたら彼は「どうして主はこんなにも私を苦しめるのか」と言葉にならない不平不満を抱え、霊的スランプに陥っていたのかもしれません。そんな時、主の使いが現れ、最初に言われたことが「起きて、食べなさい(19:5)」だったのです。神様は、疲労困憊している人に、いきなり「お説教」をされません。私達の弱さを知り、まずはゆっくり休みなさいと言われるのです。

そして、その上で「ここで何をしているのか(9)」と言われました。その時の彼は、ほら穴の中にいましたが、それは彼の精神状態を表していました。彼はただ、洞穴の中に閉じこもり、自分の周囲の暗闇ばかりを見つめ、狭い世界に閉じこもっていたのです。そんなエリヤに、神様は「ここで何をしているのか」と言われました。それは単に、そんなところに閉じこもってないで明るい世界を見なさいという意味ではありません。「外に出て、山の上で、主の前に立て(11)」と言われているのです。それがなければ、どんなゆっくり休んでも、霊的な疲労は取れません。

主の前でエリヤは「かすかな細い声」を聞きました。それはカルメル山で激しい体験をし、その後スランプに陥っていたエリヤに対する、神様からの教訓ではないでしょうか。つまり神様はここであえて「細い声」を通して語られることで、信仰というものは、そうした地道な神様との交わりに基礎を置くことだとエリヤに教えようとされていると思うのです。そこにこそ本当の霊的な活力があるのです。

あなたは疲れていませんか。もし疲れているなら、まずは美味しい物を食べて充分に休んでください。そしてその上で主の前に立ち、細き御声を聞いてください。そこで主はもう一度「行け、帰れ、あなたの道を(15)」と私たちをこの世に派遣してくださるのです。

「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
主は仰せられた。
「外に出て、山の上で主の前に立て。」
(Ⅰ列王記19章9,11節)