前回のテーマは「疲労困憊に対する訓練」でした。私達はエリヤの生涯から、疲労困憊に陥ってしまうとき、まず必要なのは、十分な休息と肉体の栄養であることを確認しました。しかしそれだけでは霊的な疲労は取れず、最終的には神の前に出て「細き御声」を聞き、人生に新しい「使命(ミッション)」をいただくことが大切だと学びました。今回もその内容と非常に良く似ていますが、また違った角度から学んでみたいと思います。今回のテーマは「落胆に対する訓練」です。
まずは、自分ではなく、他人が落胆していたらどうしたらよいのかを考えましょう。その反面教師がヨブの友人たちです。エリファズはヨブに言いました。「さあ思い出せ。誰か罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ(4:7-8)」と。これを聞いてヨブの心はどんなに痛んだことでしょうか!最も慰めを必要としている時に、よりによって友からお説教され、裁かれてしまったのです。ヨブは言いました。「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう(6:14)」つまり、それくらいの悲しみだったのです。
私達は、苦しむ友に対して、ヨブの友人のようなことを言ってはいないでしょうか?クリスチャンの熱心さは、時に人を大きく傷つけます。聖書にはこうあります。「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい(ヤコブ1:19)」また「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」と。神様は最終的にエリファズをこう叱責されました。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それはあなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ(42:7)」と。人を裁くものは、その同じ秤で持って、神様によって裁かれるのです(マタイ7:2)。
では、逆の立場ではどうでしょう。思いがけない不幸が、自分の家族に災いが襲ってきて…。自分だけは何とか頑張ろうと思っても、自分まで病気になってしまい…。精神的にも肉体的にも追い詰められ、親しい友人には「分かって」もらいたいと思っても、友人は友人で自分のことで精一杯で、全く理解されず…。おせっかいな友人にはお説教をされ…。そうこうしている間にも、段々と気力も体力も奪われ、気付けば「落胆の沼」へとどっぷりはまり込んでいる。そんな時私達は、周りの全てを遮断し、自分の殻に閉じこもってしまいたいという誘惑にかられます。
しかしそこであえて「走り続ける」という選択肢もあるのです。これは全ての人にはお勧めできません。普通だったら休んだほうがいいのです。ゆっくり休んで、祈りと御言葉に時間を割き、癒されるのも一つの方法でしょう。しかし健康的にボロボロになっても、精神的にズタズタになっても、霊的スランプに落ち込んでいても、それでも尚「主イエスを見上げて走り続ける」という第三の道があるのです。そうすることによって、ある人々は健康なときには知りえなかった「弱さにおける恵み(Ⅱコリ12:9)」や、自分の力によらない「御霊の原理(ローマ8章)」を体験するのです。その時私達の信仰の扉は別次元に向かって大きく開かれます。歴史上の信仰の偉人と呼ばれる人々は、大体そういうところを通らされた人達です。
この中にも「落胆している者」があるでしょうか?「もうダメだ」と感じている人がいるでしょうか?そんな時はあえて走り続けることが、あなたの心を守ってくれることもあるのです。◆すると不思議なことに、ふと足が軽くなる瞬間がやってきます。自分の力ではなくて、主の恵みと御霊の力によって、走っていることに気付く時がやってくるのです。
「忍耐をもって
走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、
完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
あなた方の心が元気を失い、
疲れ果ててしまわないためです」
(ヘブル12:1-2、4)
それでも Anyway
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時々
さみしくなるよ
どうして 心が通じないのかな
どうして 信じてもらえないのかな
そんな時は この10ヶ条を読みたくなる
この 悲しみに 負けてしまわないように
それでも 人を愛することが
できますように
1. 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しな...
8 年前