2008年3月13日木曜日

第23回「侮辱に耐える訓練」 マルコ11:1-11 15:1-20

以前、私達は「中傷に対する訓練」について学びました。その時はナバルに侮辱され激高したダビデが(Ⅰサム25章)、歳を経て、同じようにシムイに侮辱されたときには「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」と言い得るまで訓練されたことを学びました(Ⅱサム16章)。今回も似たような内容ではありますが、「侮辱」についてイエス様の生涯から学びましょう。

侮辱に耐えることの難しさについてエドマン博士がこう指摘しています。「侮辱や軽蔑に耐える訓練ほど忍耐力を試みるものはない。私達は自分に対する陰謀を無視することや、当てこすりなどに知らない振りをすることは出る来かもしれない。しかし、明らかに人を軽蔑した、ののしりの言葉や態度に耐えることが出来るだろうか?私達は侮辱されることについては本当に弱いのである。軽蔑に満ちた扱いを受ければ卑屈になり、侮辱されればけんか腰になってしまうのである。(p243)」

しかも「賞賛」と「侮辱」は、よく立て続けにやってきます。イエス様の場合がそうでした。十字架に付けられる6日前に、イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城したところ、群衆は手にはシュロの葉を持ち、道には自分達の服を敷き詰めて、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」と喜び叫んだのです。そこにラザロも一緒にいたことが、彼らの歓喜をさらに増し加え、喜びの歌声は、エルサレム中の建物を振るわせたことでしょう(ヨハネ12章)。

その同じ口が、一週間後には「十字架につけろ」と叫んでいたのです。なんという変わり身の早さでしょうか!結局彼らの熱狂は何だったのでしょうか?それは実に浅はかな、「奇跡見たさの熱狂」であり、イスラエルの救いを待ち望む「ナショナリズム的熱狂」だったのです。そして、そんな自分達の(身勝手な)期待が裏切られると、彼らは手のひらを返したようにイエス様を憎み、あざけり、痛めつけ、侮辱の限りを尽くし、ついには十字架にかけて殺してしまったのです…。

私達は人の評価に振り回されてはいけません。褒めちぎる人、お世辞を言いすぎる人、そういった人の言葉に躍らされ、勘違いしてしまってはいけません。熱狂しやすい人ほど冷めやすく、その言葉は非常に無責任です。「賞賛」と「侮辱」は常に紙一重で、大げさな賞賛ほど、むごい「侮辱」に変わりやすいのです。そのことを忘れて自分まで一緒に舞い上がってしまうとき、ちょっとした「侮辱」にも耐えられず、自尊心は粉々に砕かれ、落胆の沼に突き落とされてしまうのです。

侮辱を受けた際の、最高の模範はイエス様です。イエス様は、人々の熱狂にも、決して踊らされることなく、侮辱に対しても、打ちひしがれてしまうことはありませんでした。いつもその目は「アバ父」に向けられ、そのお方の前で「自分が何者であるのか」「どれほど愛されているのか」「自分の使命は何であるのか」を自覚しておりました。だから十字架という極限の状態の中でも自分を見失わず「父よ彼らをお赦しください(ルカ23:34)」と、人のために祈ることが出来たのです。

「神様は私へのそしりと、私の恥と私への侮辱とをご存じです(詩篇69:19)」。私たちはこの事を本当に信じているでしょうか?神様は、私たちの苦しみを全てご存知で、ともに苦しんでおられるのです。◆そればかりではありません、私たちが侮辱され、怒りに震え、心の中で相手を罵っているときにも、イエス様は、そんな私達のために「父よかれらをお赦しください」と祈っておられるのです。◆そう祈られる者として、私たちも、侮辱する者のために「父よ、彼らをお許しください」と祈ることは出来ないでしょうか?

あなたをのろう者を祝福しなさい。
あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
(ルカ6章28節)

第22回「不平不満に対する訓練」 民数記11章

今回のテーマは「不平不満に対する訓練」です。どうでしょうか?みなさんは、現在、何の不満もないでしょうか?もしかしたら「はい、私は何の不満も持っていません」と答えられる人がいるかもしれません。しかしその「満足」でさえ、ちょっとしたことで、「不平不満」の原因に変わってしまう事だってあるのです。

例えば他の人と比べてしまうことです。すると今まで持っていた「小さな幸せ」が、とたんに色あせて見えてしまい、惨めな気持ちになり、人をうらやむようになってしまいます。そして、それまで感じていなかった、不平不満が生まれるのです。ダビデもそうでした。彼はもうすでに十分に与えられていたのに、バテシェバを見た時に、「与えられているもの」だけでは満足できなくなってしまったのです。

荒野でのイスラエルの民も同じでした。彼らには「マナ」を与えられていました。それは聖書によると「コエンドロの種のようで、色はブドラハのようで」ありました。またそれで作ったパンは「おいしいクリームの味のよう」でした(11:4-8)。まさに「天からの食物」です!なのに彼らは、激しい欲望にかられ、大声で泣きながら「ああ肉が食べたい!(11:4)」と、わめき始めたのです。なぜでしょうか?

彼らはエジプトでの食事を思い出したのです。彼らは言いました。「ああ肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ」と。彼らだって、最初のうちは感謝でいっぱいだったのです。しかし次第にそれが「当たり前」になり、よりによってエジプトでの食事と比べて「不平不満」を並べはじめたのです。何という恩知らず!

もともとは奴隷であった彼ら自身が「助けてください」と叫んだのです(出エジ2:23)。だから神様はモーセを遣わして「パロの圧制」から彼らを救われました。そればかりか「乳と蜜の流れる約束の地カナンに、あなたがたを導く」との約束まで与えられ、雲の柱と火の柱が荒野での40年間、彼らを守り導いていたのです。何か不足があったでしょうか?いいえ。しかし彼らにはなおも不平不満がありました。

不平不満は恐ろしいものです。なぜなら与えられている恵みに対して、私達の目をふさいでしまうからです。あなたは大丈夫ですか?すでに見切りをつけたはずの過去の世界を思い出し「あの頃のほうが」と感じていないでしょうか?もしくは身近な誰かと比べ、「あの人はいいなぁ、それにひきかえ私は…」とみじめな気持ちになっていないでしょうか。または、そんなこと全然関係なく、とにかく「なんで私ばっかり」と不平不満をふくらませ自己憐憫に陥っていないでしょうか?

もしそうなら、無い物ねだりをやめ、与えられている恵みに感謝することです。きっとあなたにも、もうすでに多くの恵みが与えられているはずです。あなたには、何よりもイエス様の十字架によって「永遠の命」が与えられているではありませんか!パウロはこう言いました。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです(Ⅰテモテ6:6-8)」と。

愚か者よ、「あぁ肉が食べたい」と言う口をふさぎ、既に与えられている「マナ」に感謝しなさい。それでもまだ「足りない」と言うのなら、なお更のこと、私達にとっての約束の地「神の国とその義とをまず第一に求める」生活をする事です。決して、後ろ(エジプト)を振り返ってはいけません。そうすれば、私達の必要を誰よりも知っておられる天の父が、溢れんばかりの祝福を持って、私たちの必要を「全て」満たしてくださるのです。

だから、神の国とその義とを
まず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)

2008年3月5日水曜日

第21回「識別力における訓練」 Ⅰヨハネ4章

私達は以前にも何回か、同じようなテーマで学んだことがあります。しかし敢えてもう一度、このテーマについて学んでみたいと思います。なぜなら私達の人生は「決断の連続」だからです。エドマン博士はこう書いています(p225-226要約)。

「私達は日々襲い来る出来事に対して、鋭い洞察力をもって対処していかなければならない。しかし私達はどのように知ることが出来るのだろうか?果たしてそれらが本当に、全能なる神様の愛のから出たことなのか、それとも破壊的な暗闇の力から出たものであるのか。この試練は、主が自分に与えられた、負うべき十字架なのか、それとも避けるべきサタンの罠なのか?壁にぶつかる時は、御霊が禁じておられるのか、それとも悪魔が妨害しているのか?苦しみの中で差し伸べられる援助の手は、主が使わされた天使のものなのか、それとも妥協させるための甘い誘惑か?私達は一体どうしたらそれらを識別することができるのだろうか?」

結局のところ明快な解答はないのかもしれません。多くのことは、後になってから「あぁ、あれは、主が与えられた試練だったのだ」とか「あぁ、危なかった、もう少しでサタンの罠にはまるところだった」と言えるものですし、私達は決して安易に、「それは神様の御心だ」とか「サタンの誘惑だ」などと、自分なりの神学を振りかざすべきではありません!そんな時、私たちは、ただ沈黙の内に祈り、御言葉に聞き、手探りで「主の御心」を追い求めていくしかないのです。そしてそうした中で徐々に「識別力は訓練」され、私達は「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人(ヘブル5章14節)」へと成長していくのです。

しかし、そんなのんきなことも言っていられません。私達は今日も何かを決断しなければならないのです。もちろん、スーパーマーケットで大根を買うのが「御心か」などと、ノイローゼ気味になる必要はまったくありませんが、大事なことに関しては、やはり「それが本当に御心なのか」を吟味しなければならないのです。ではどうやって吟味したらよいのでしょうか。いくつかの原則を紹介しましょう。

まずは「ただ自分の欲によって決断しようとしていないか」と吟味することです。聖書にははっきりと「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではありません(ヨハネ2:16)」とあります。自分の欲望に目がくらみ、目先の利益だけを追い求める人生、それこそが聖書で言うところの「罪(ハマルティヤ)」なのです。

だから私達はいつも「本当にそれが、永遠の前で価値のあることかどうか」を吟味しなければならないのです。この世で欲しいものを手に入れ、やりたいことを全部やったとしても、それが永遠の前に何の意味があるのでしょうか?私達はむしろ、この世では損をしようとも、本当の意味で天に宝を積む事を選択すべきなのです。

そして最後に「それは本当に愛から出ているか」と吟味することです。この場合の愛とは、自分を愛する「自己愛」のことではありません。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛すること』そして 『あなたの隣人をあなた自身のように愛すること』(マタイ22:38-39)なのです。この愛から出た、「言葉」「行い」「決断」こそが、神様の御前に「真に優れたこと」なのです!

あなたの「識別力アンテナ」は研ぎ澄まされているでしょうか。それとも長いこと使っていなくて、すっかり錆付いてしまっているでしょうか?◆「識別力の訓」は、使えば使うほど研ぎ澄まされます。その人は本当の意味で、ますます「豊かに」なるのです。


私は祈っています。
あなたがたの愛が、
真の知識とあらゆる識別力によって、
いよいよ豊かになり、
あなたがたが、
真にすぐれたものを見分けることが
できるようになりますように。
(ピリピ1章9-10節)