2008年3月13日木曜日

第22回「不平不満に対する訓練」 民数記11章

今回のテーマは「不平不満に対する訓練」です。どうでしょうか?みなさんは、現在、何の不満もないでしょうか?もしかしたら「はい、私は何の不満も持っていません」と答えられる人がいるかもしれません。しかしその「満足」でさえ、ちょっとしたことで、「不平不満」の原因に変わってしまう事だってあるのです。

例えば他の人と比べてしまうことです。すると今まで持っていた「小さな幸せ」が、とたんに色あせて見えてしまい、惨めな気持ちになり、人をうらやむようになってしまいます。そして、それまで感じていなかった、不平不満が生まれるのです。ダビデもそうでした。彼はもうすでに十分に与えられていたのに、バテシェバを見た時に、「与えられているもの」だけでは満足できなくなってしまったのです。

荒野でのイスラエルの民も同じでした。彼らには「マナ」を与えられていました。それは聖書によると「コエンドロの種のようで、色はブドラハのようで」ありました。またそれで作ったパンは「おいしいクリームの味のよう」でした(11:4-8)。まさに「天からの食物」です!なのに彼らは、激しい欲望にかられ、大声で泣きながら「ああ肉が食べたい!(11:4)」と、わめき始めたのです。なぜでしょうか?

彼らはエジプトでの食事を思い出したのです。彼らは言いました。「ああ肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ」と。彼らだって、最初のうちは感謝でいっぱいだったのです。しかし次第にそれが「当たり前」になり、よりによってエジプトでの食事と比べて「不平不満」を並べはじめたのです。何という恩知らず!

もともとは奴隷であった彼ら自身が「助けてください」と叫んだのです(出エジ2:23)。だから神様はモーセを遣わして「パロの圧制」から彼らを救われました。そればかりか「乳と蜜の流れる約束の地カナンに、あなたがたを導く」との約束まで与えられ、雲の柱と火の柱が荒野での40年間、彼らを守り導いていたのです。何か不足があったでしょうか?いいえ。しかし彼らにはなおも不平不満がありました。

不平不満は恐ろしいものです。なぜなら与えられている恵みに対して、私達の目をふさいでしまうからです。あなたは大丈夫ですか?すでに見切りをつけたはずの過去の世界を思い出し「あの頃のほうが」と感じていないでしょうか?もしくは身近な誰かと比べ、「あの人はいいなぁ、それにひきかえ私は…」とみじめな気持ちになっていないでしょうか。または、そんなこと全然関係なく、とにかく「なんで私ばっかり」と不平不満をふくらませ自己憐憫に陥っていないでしょうか?

もしそうなら、無い物ねだりをやめ、与えられている恵みに感謝することです。きっとあなたにも、もうすでに多くの恵みが与えられているはずです。あなたには、何よりもイエス様の十字架によって「永遠の命」が与えられているではありませんか!パウロはこう言いました。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです(Ⅰテモテ6:6-8)」と。

愚か者よ、「あぁ肉が食べたい」と言う口をふさぎ、既に与えられている「マナ」に感謝しなさい。それでもまだ「足りない」と言うのなら、なお更のこと、私達にとっての約束の地「神の国とその義とをまず第一に求める」生活をする事です。決して、後ろ(エジプト)を振り返ってはいけません。そうすれば、私達の必要を誰よりも知っておられる天の父が、溢れんばかりの祝福を持って、私たちの必要を「全て」満たしてくださるのです。

だから、神の国とその義とを
まず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)