2008年3月5日水曜日

第21回「識別力における訓練」 Ⅰヨハネ4章

私達は以前にも何回か、同じようなテーマで学んだことがあります。しかし敢えてもう一度、このテーマについて学んでみたいと思います。なぜなら私達の人生は「決断の連続」だからです。エドマン博士はこう書いています(p225-226要約)。

「私達は日々襲い来る出来事に対して、鋭い洞察力をもって対処していかなければならない。しかし私達はどのように知ることが出来るのだろうか?果たしてそれらが本当に、全能なる神様の愛のから出たことなのか、それとも破壊的な暗闇の力から出たものであるのか。この試練は、主が自分に与えられた、負うべき十字架なのか、それとも避けるべきサタンの罠なのか?壁にぶつかる時は、御霊が禁じておられるのか、それとも悪魔が妨害しているのか?苦しみの中で差し伸べられる援助の手は、主が使わされた天使のものなのか、それとも妥協させるための甘い誘惑か?私達は一体どうしたらそれらを識別することができるのだろうか?」

結局のところ明快な解答はないのかもしれません。多くのことは、後になってから「あぁ、あれは、主が与えられた試練だったのだ」とか「あぁ、危なかった、もう少しでサタンの罠にはまるところだった」と言えるものですし、私達は決して安易に、「それは神様の御心だ」とか「サタンの誘惑だ」などと、自分なりの神学を振りかざすべきではありません!そんな時、私たちは、ただ沈黙の内に祈り、御言葉に聞き、手探りで「主の御心」を追い求めていくしかないのです。そしてそうした中で徐々に「識別力は訓練」され、私達は「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人(ヘブル5章14節)」へと成長していくのです。

しかし、そんなのんきなことも言っていられません。私達は今日も何かを決断しなければならないのです。もちろん、スーパーマーケットで大根を買うのが「御心か」などと、ノイローゼ気味になる必要はまったくありませんが、大事なことに関しては、やはり「それが本当に御心なのか」を吟味しなければならないのです。ではどうやって吟味したらよいのでしょうか。いくつかの原則を紹介しましょう。

まずは「ただ自分の欲によって決断しようとしていないか」と吟味することです。聖書にははっきりと「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではありません(ヨハネ2:16)」とあります。自分の欲望に目がくらみ、目先の利益だけを追い求める人生、それこそが聖書で言うところの「罪(ハマルティヤ)」なのです。

だから私達はいつも「本当にそれが、永遠の前で価値のあることかどうか」を吟味しなければならないのです。この世で欲しいものを手に入れ、やりたいことを全部やったとしても、それが永遠の前に何の意味があるのでしょうか?私達はむしろ、この世では損をしようとも、本当の意味で天に宝を積む事を選択すべきなのです。

そして最後に「それは本当に愛から出ているか」と吟味することです。この場合の愛とは、自分を愛する「自己愛」のことではありません。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛すること』そして 『あなたの隣人をあなた自身のように愛すること』(マタイ22:38-39)なのです。この愛から出た、「言葉」「行い」「決断」こそが、神様の御前に「真に優れたこと」なのです!

あなたの「識別力アンテナ」は研ぎ澄まされているでしょうか。それとも長いこと使っていなくて、すっかり錆付いてしまっているでしょうか?◆「識別力の訓」は、使えば使うほど研ぎ澄まされます。その人は本当の意味で、ますます「豊かに」なるのです。


私は祈っています。
あなたがたの愛が、
真の知識とあらゆる識別力によって、
いよいよ豊かになり、
あなたがたが、
真にすぐれたものを見分けることが
できるようになりますように。
(ピリピ1章9-10節)