2008年5月11日日曜日

第25回「幻滅に対する訓練」 ルカ24章1-35節

本日の学びは「幻滅に対する訓練」です。私達は、もう既に「遅延」「絶望」「病気」と学んできました。それらも広い意味での「幻滅の訓練」かもしれません。でも私達は改めて「幻滅の訓練」を学びたいと思います。なぜならクリスチャンにとっての幻滅とは、単に希望を失ってしまうことではなく「永遠の希望」に私達の目を開かせる「大切な訓練」でもあるからです。どういうことでしょうか…。

イエス様を目の前にして、二人の弟子たちは言いました。「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだと望みをかけていました」と。「望みをかけています」ではなく「望みをかけていました」と過去形で言ったのです。彼らは深く幻滅していました。「もう終わりだ」と感じていました。「どうして『キリストの復活』を信じられるものか」と感じていました。もうすべては「過去」の話だったのです。

彼らが信じたイエス様は、病人を癒し、群集に食べさせ、威厳をもって語られる力強いイエス様だったのです。そんなイエス様に出会い「この方こそイスラエルを購う、救い主(メシア)に違いないという望みをかけ」全てを捨ててイエス様に従って来たのです。でもそのイエス様は十字架につけられて死んでしまい、三日もたっていました。だから彼らは暗い顔をして、うつむき、論じ合っていたのです。

彼らには、復活のイエス様がまったく見えませんでした。彼らの「信じていた」イエス様は、もう既に十字架上で死んでしまったからです。彼らの幻滅はあまりにも深く、目の前のイエス様に気付くことも出来ませんでした。しかし彼らの「自分なりの悟りに基づく信仰」が砕かれてしまったことは、長い目で見れば幸いでした。なぜならその痛みを通して、彼らは本当の意味で見える者とされたからです。

多くの信仰者が「幻滅」を通して、信仰に深みに達するのはそのためです。エマオの途上で「二人の目はさえぎられて」いましたが、私達の霊的な目も様々なものにさえぎられています。それは「自分なりの悟り」や「思い込み」や「勝手な期待」かも知れません。しかし、良くも悪くも深い「幻滅」を味わうことによって、長い年月をかけて築いてきた、「自分なりの信仰」は粉々に砕けてしまうのです。

その時もう一度、真剣に聖書に向かい合うことが大切なのです。イエス様は「聖書全体の中からご自分について書いてある事がらを説き明かされ」ました。具体的には、ご自分の復活を聖書そのものから証明されたのです。するとどうしたことでしょう。二人の心が「内に燃え」はじめたではありませんか!それは奇跡を見た時のような激しい燃え方ではありませんでしたが、確かに力強い信仰の炎でした。

あなたは幻滅を感じた時どうしていますか。「失ったもの」に固執し、幻滅の沼にどっぷり留まり続けますか?人とのおしゃべり明け暮れ、何とか人からの同情や慰めを引き出そうとしますか?そこに本当の解決はありません。大切なのは聖書を開き、時間をかけて神様とじっくり交わることです。その時、私達の心は静かに燃え始めるのです。聖書に深く根ざした信仰は、少々のことでつまずきません。

私達はもしかしたら、今まさに「エマオの途上」にいるのかもしれません。失望と落胆が、私達を激しく揺さぶっているかもしれません。幻滅の谷はあまりにも深く、私達には渡りきれないと感じているかもしれません。◆しかしあなたが信仰を持って、目を上げるなら、インマヌエルの主が、共に歩んでおられることを知るでしょう。恐れる必要はありません。深い「幻滅」を乗り越える時、そこに「本当の希望」が見えてくるのです。

「道々お話しになっている間も、
聖書を説明してくださった間も、
私たちの心は
うちに燃えていたではないか。」
(ルカ24章32節)

草は枯れ、花はしぼむ。
だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
(イザヤ40章8節)