2008年5月11日日曜日

第26回「出世についての訓練」 歴代誌26章1-23節

本日のテーマは「出世についての訓練」です。ある方は「私は絶対に大丈夫。だいたい出世になんて『興味』も『縁』もない」と感じておられるかもしれません。しかし本当に大丈夫でしょうか?大げさなことではないのです。人と比べて、少しばかり目立つ立場、少しばかり影響力のある立場、少しばかり裕福な立場におかれるだけで、私達もすぐに、ウジヤと同じような失敗を犯してしまうのです…。

若い頃のウジヤは、確かに素晴らしい王でした。16歳で王とされた彼は、まだ自信がなかったのか、とにかく必死に、主によりすがりました。彼は、「主の目にかなうことを行な(4)い、主も彼を助けられ(75)、彼は異邦人との戦いにことごとく勝利を収めることができました。また、その他にも、彼は農業を振興し、多くの水ためを掘り、最強の軍隊を組織し、新しい兵器も考案し、国を強くしました。その結果、彼の名はついにエジプトにまで響き渡ることになったのです(8-15)。

しかし成功の絶頂にあったとき、彼の人生の歯車が狂い始めました。聖書によると「彼の心は高ぶり、身に滅びを招いた(16)」のです。具体的にいうと「本来、自分のするべき事ではない(18)」香をたくという「聖なる奉仕」にまで首を突っ込み、そのことを祭司アザルヤに注意されても、悔い改めるどころか、更に激しい怒りを燃やし、食って掛かったのです(19)。するとどうしたことでしょうか?彼の額に「重い皮膚病(新改訳:らい病)」が現れ、彼は悲惨な最期を遂げたのです。

何が間違っていたのでしょう。きっとウジヤは「自分の力を過信した」のでしょう。彼にも、生まれ持った「賜物」や「リーダーシップ」はあったと思います。しかしそれらは全て「主の助け」があって(7,15)、「なんぼのもの」だったのです。それなのに彼は、何を勘違いしたのか「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ(イザヤ10:13)」と考えてしまったのです。そしてついには、神の領域に属する、聖なる奉仕にまで、土足で踏み込んでしまいました。

いったい若い頃の彼はどこに行ってしまったのでしょうか。エドマン博士はこう書いています。「キリスト者に対する真のテストは、倒れそうになるほど労している時にではなく、むしろ高い地位に上り、人々から誉めそやされる頃にやってくる。多くの信仰者は、貧しさには耐えることができても、繁栄につまずいてしまう。労働には耐え得ても、豊かさには耐えられない。軽んじられても必死に頑張るが、いったん成功し、ちやほやされると傲慢になってしまう。そして、ついには自分を滅ぼしてしまうのだ(p276~要約)」。本当に恐ろしいのは出世(成功)なのです。

勘違いしてはいけません。出世(成功)そのものがいけない、のではないのです。もし、そういうことを本気で叫んでいる人がいるならば、きっとその人は他人の成功を「羨んでいる」のでしょう。「嫉妬とは、人が持っているものを羨むことであり、同時に人が持たないことを喜ぶ感情」です。騙されてはいけません。もっともらしい正義の背後には、人間の「最も汚い感情」が隠れていることが多いのです。

私たちが学ぶべき「出世についての訓練」は、次のことです。◆第一に、出世できなくても、決して卑屈にならないことです。努力しても与えられないのは、今のあなたには必要ないからです。しかし努力することをやめてはいけません。◆二番目に、出世できても、決して天狗にならないことです。それを与えてくださったのは「神様」です。「与えてくださった方への感謝」を忘れてしまうとき、その成功が「災い」となってしまうのです。

「乏しいからこう言うのではありません。
私は、どんな境遇にあっても
満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、
豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、
富むことにも乏しいことにも、
あらゆる境遇に対処する
秘訣を心得ています。」
(ピリピ4章11-12節)