2007年11月22日木曜日

第10回「遅延に対する訓練」

今回のテーマは「遅延の訓練」です。私達は自分の願い事を祈ります。しかし、それらは必ずしもすぐにかなえられるのではなく、思わぬ「遠回り」を強いられる場合があります。また時には、願った道が閉ざされ、全く違う道を通らされることもあります。神様にはすべてが可能なら、なぜそのようなことが起こるのでしょうか?そして「遅延の訓練」には、どんな意味が隠されているのでしょうか?

パウロほど、遅延の訓練を味わった人物はいません。パウロは、あの改心の出来事の後すぐ、ダマスコのアナニヤに会いに行き、祈ってもらい、目が見える様になりました。そして多くの人は、その後すぐにダマスコでの宣教活動に入ったと思っているのですが、そうではありません。パウロは奇跡を体験した者にありがちな、燃える情熱を内に秘めながらも、その時は、誰に相談することもなく、先輩の使徒に会いに行くこともなく、寂しいアラビヤの荒野に退いて行ったのです。

なぜパウロは荒野に退いたのでしょうか?そこで「伝道した」との記録は残っていませんから、おそらく彼はアラビヤの荒野でもう一度、あの光の中でお会いしたイエス様と向き合ったのでしょう。そして祈りの内にイエス様と格闘し、より砕かれ、彼の説教の中心である「恵みの福音」に目が開かれていったのです。つまりこの「遅延の訓練」があったからこそ、彼は後の奉仕のために整えられ「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者(ヤコ1:3-4)」とされたのでした。

エドマン博士はこう勧めます(p109~要約)。「あなたも『遅延の訓練』を受けているだろうか?活躍するために静まり、強められるために弱くなり、語るために黙し、健やかになるために病み、よき友情を得るためにしばし忘れ去られ、よい機会に恵まれるためになかなか方向が示されない、というような訓練を受けているだろうか?遅延という暗闇を通して、聖徒の忍耐を学びなさい。今は分からなくても、あなたは今、後に用意されている、神様の目的のために整えられているのです」。

人の目には回り道のように見えても、それが「神様の最善」への近道なのです。例えばパウロのマケドニヤ行きです。最初、パウロはアジヤに行く予定でいました。おそらく彼は、そのために綿密な計画を立てて、もちろん祈り込み、万全の支度を整えていたことでしょう。しかし直前になって「御霊に禁じられて」しまったのです!その時彼はどうしたでしょうか?あくまで自分の計画に従ったでしょうか?いいえ違います。彼はそれらをすべて捨てて、神様の御心に従ったのです。

あなたは「自分の近道」を選択し「最善への遠回り」をしていないでしょうか?主の御心に従うとき、私達の心は「いのちと平安(ロマ8:6)」に満たされます。しかし、主の御心に背いているときは、「自分の良心が互いに責め合ったり、弁明をしたり(2:15)」しているのです。クリスチャンであれば、開き直って、主の御心に背く人はいないでしょう。しかし「これだって主の御心」だと、神様に対して弁明してしまうことはあるのです。残念ながら、それは神の祝福への遠回りなのです。

時計で考える「近道」と、永遠の基準から見た「近道」とは違います。往々にして私達は、目先の「利益」や「効率」ばかりを求めてしまいます。そして「遅延の訓練」を軽んじてしまうのです。しかし本当な大切なのは「この世でどれだけ多くのことを成し遂げるか」ではなく「神様の前にどれだけ価値のあることを成し遂げるか」なのです。それを成し遂げるためには、遅延の訓練が必要なのです。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
人には、神の御業を、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者の書3章11節