2007年11月22日木曜日

第12回「悪意に対する訓練」

今回のテーマは「悪意に対する訓練」ですが、そのことをダビデの生涯を通し学びたいと思います。少年ダビデは一介の羊飼いでした。その彼が、サウル存命中に、王としての油注ぎを受けるのですが、そのことはしばらく公表されず、彼は、サウルのお抱えの琴奏者として王宮に出入りしていたのです。ですがゴリアテの一件があり、ダビデの人気は国中に一気に高まり、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と騒ぎ立てられます。それは大いに、サウルの機嫌を損ねました。

そして、その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになったのです。この「疑いの目」とは、新共同訳聖書で「ねたみの目」とも訳されていますが、サウルは、王である自分より尊敬と人気を勝ち取ったダビデに、激しい嫉妬を抱いたのでした。Ⅰテモテ6章4節には「疑いをかける病」があるといいます。そして、いったんこの病にかかってしまうと「そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、絶え間のない紛争が生じる(同5節)」のです。嫉妬の病は実に恐ろしい!

エドマン博士は、この「ねたみ」について、こう指摘します。「ねたみというものは、どんな場合でも、残酷なものである。ねたみのゆえにアベルはカインに殺され、ヨセフは兄達の手によって奴隷として売られ、キリストは十字架に付けられた。ダビデも、このねたみのために苦しめられた。彼は従順で、謙遜で、慎み深い一平卒にしすぎなかったのに、王のひがみ根性のゆえに命を狙われた(p130~)」と。しかしそれでもギリギリのところまで逃げ出さず、最後の最後まで王のために琴を弾き続けたのです。一体ダビデはどんな気持ちで琴を奏で続けたのでしょう…。

私達はどうでしょう。ダビデの様に、人からの悪意にさらされても、その悪意に毒されず、振り回されず、逃げ出さず、自分を保ち続けることが出来るでしょうか?その只中にあっても、その悪意を持つ人に仕え続け、最後まで、誠実を貫き通すことが出来るでしょうか?ダビデは、その「訓練」に勝利を収めることが出来ました。だからこそ神様は、ダビデに多くのもの(賜物、奉仕)を任せたのでしょう!

ある人は言うかも知れません。「いやぁダビデは、サウルが、主に油を注がれた方だったから、手を下せなかっただけさ(24:6)」と。確かにそういう面もあります。しかし言い訳は許されません。新約聖書には、はっきりこう勧められているからです。Ⅰテサロニケ5章15節「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい」と。

それを本気で実行しようとする時、私達の主に対する「信頼」が試されます。主に信頼していないと、どうしても自分の判断で逃げ出したくなる。また、自分に力があれば、どうしても何倍にもして復讐したくなる。しかしローマ12章19節にはこうあります。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをすると主は言われる』」と。悪意に悪意で答えては絶対にいけません!

つまり「悪意に対する訓練」とは、この「主に信頼する訓練」でもあるのです。ただ悪意に対して我慢するだけではない、主に信頼し、相手の祝福のために祈るのです。それができて、初めて「悪意に対する訓練」に合格することができるのです。◆もし私たちが、この訓練を真正面から乗り越えるなら、日々襲いくる困難にもめげず、悪意にも押しつぶされず、多くを任されるクリスチャンになるのです!

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、
かえって祝福を与えなさい。
あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
(Ⅰペテロ3:9)