2007年11月22日木曜日

第11回「喜びについての訓練」

今回のテーマは「喜びについての訓練」ですが、ある人はこのテーマを聞いて奇妙に思うかもしれません。「喜び」と「訓練」は、矛盾する、二つの事柄だと思っているからです。しかしこの二つは、少しも矛盾しません。喜ぶべきことをしっかり「喜び」、それを「いつも」しているためには「訓練」が必要なのです。

世間一般で言うところの「喜び」とは、非常に感覚的なものです。普通、人は良いことがあれば喜び、不幸な出来事があれば悲しむのです。確かにそれも間違いではありません。伝道者の書にも「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ(7:14)」とあります。しかしそれだけでは「いつも喜んでいる(Ⅰテサ5:26)」ことは出来ません。聖書が言うところの「喜び」にはもっと別の意味があるのです。それはどういう意味なのでしょうか?「~ではない」という形で説明してみましょう

聖書でいうところの「喜び」は、この地上における満足だけを意味しているのではありません。伝道者の書の著者であるソロモンは、人類史上もっとも栄華を極めた人物の一人でした(マタ6:29)。その彼が人生を振り返り残した言葉が「空の空すべては空(1:2)」「何とむなしいことか。それがいったい何になろう(2:1-2)」だったのです。神様は人に「永遠への思い(3:11)」を与えられたので、本来その「思い」が満たされない限り、深い「満足」と本当の「喜び」は経験できないはずなのです。しかしその健全な「むなしさ感」さえ麻痺してしまうこともあります。

イエス様のたとえ話における「金持ち」がそうでした。彼は言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ(ルカ15:19)」と。彼は二つの点で愚かでした。一つは、この世の物質だけで満足してしまい、その快楽に魂まで売ってしまったことです。お金で買えないものはないと考える人も同じです。そしてもう一つは、自分だけを喜ばせようとしていた点です。彼の「喜び」は、どこまでも俗物的で、自己中心的でした。

ある人は「私は違う」と言わんばかりに、「私はもっと精神的な満足を求めています」と言うかもしれません。確かに私達は、誰かを愛し、誰かから愛され、誰かのために生きる時、物質的な満足なんかより、もっと深い喜びを経験します。しかしその「喜び」でさえも完全ではありません。愛しても愛されないとき。尽くしても感謝をされないとき。そして、大切な人を失ってしまうとき。それでも私たちは「いつも喜んでいる」ことが出来るでしょうか?内面からの喜びは一時的です。

聖書は私たちに、無理な要求を突きつけているのでしょうか。いいえ違います。 そもそも聖書が言っている喜びとは、内からこみ上げる「感情的な喜び」ではなく、信仰の結果としての「意志的な喜び」なのです。この世にあっては試練に会うこともあります。愛する人を失ってしまうこともあります。期待が裏切られることもあります。その時は心が痛んで当然ですし、とても喜べません。納得できませんし、受け入れたくありません!しかしそれでも「神様の永遠という時の中」では、すべてが繋がっていることを信じるのです。天の御国においては、すべてが明らかにされることを信じるのです。感じなくても信じるのが、本当の喜びです。

それを「感謝の先取り」といいます。御国において味わう「喜び」を、この地上において、信仰によって味わうのです。この希望があなたを失望させることはありません。それを信じ、こおどりしたってよいのです!◆感情を無視しなさいということではありません。感情も大切です。しかしクリスチャンには、たとえ涙があっても、深い喜びがあるのです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、
いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた
喜びにおどっています。この(喜び)は、信仰の結果である!(Ⅰペテロ1:8-9)