2008年5月11日日曜日

第26回「出世についての訓練」 歴代誌26章1-23節

本日のテーマは「出世についての訓練」です。ある方は「私は絶対に大丈夫。だいたい出世になんて『興味』も『縁』もない」と感じておられるかもしれません。しかし本当に大丈夫でしょうか?大げさなことではないのです。人と比べて、少しばかり目立つ立場、少しばかり影響力のある立場、少しばかり裕福な立場におかれるだけで、私達もすぐに、ウジヤと同じような失敗を犯してしまうのです…。

若い頃のウジヤは、確かに素晴らしい王でした。16歳で王とされた彼は、まだ自信がなかったのか、とにかく必死に、主によりすがりました。彼は、「主の目にかなうことを行な(4)い、主も彼を助けられ(75)、彼は異邦人との戦いにことごとく勝利を収めることができました。また、その他にも、彼は農業を振興し、多くの水ためを掘り、最強の軍隊を組織し、新しい兵器も考案し、国を強くしました。その結果、彼の名はついにエジプトにまで響き渡ることになったのです(8-15)。

しかし成功の絶頂にあったとき、彼の人生の歯車が狂い始めました。聖書によると「彼の心は高ぶり、身に滅びを招いた(16)」のです。具体的にいうと「本来、自分のするべき事ではない(18)」香をたくという「聖なる奉仕」にまで首を突っ込み、そのことを祭司アザルヤに注意されても、悔い改めるどころか、更に激しい怒りを燃やし、食って掛かったのです(19)。するとどうしたことでしょうか?彼の額に「重い皮膚病(新改訳:らい病)」が現れ、彼は悲惨な最期を遂げたのです。

何が間違っていたのでしょう。きっとウジヤは「自分の力を過信した」のでしょう。彼にも、生まれ持った「賜物」や「リーダーシップ」はあったと思います。しかしそれらは全て「主の助け」があって(7,15)、「なんぼのもの」だったのです。それなのに彼は、何を勘違いしたのか「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ(イザヤ10:13)」と考えてしまったのです。そしてついには、神の領域に属する、聖なる奉仕にまで、土足で踏み込んでしまいました。

いったい若い頃の彼はどこに行ってしまったのでしょうか。エドマン博士はこう書いています。「キリスト者に対する真のテストは、倒れそうになるほど労している時にではなく、むしろ高い地位に上り、人々から誉めそやされる頃にやってくる。多くの信仰者は、貧しさには耐えることができても、繁栄につまずいてしまう。労働には耐え得ても、豊かさには耐えられない。軽んじられても必死に頑張るが、いったん成功し、ちやほやされると傲慢になってしまう。そして、ついには自分を滅ぼしてしまうのだ(p276~要約)」。本当に恐ろしいのは出世(成功)なのです。

勘違いしてはいけません。出世(成功)そのものがいけない、のではないのです。もし、そういうことを本気で叫んでいる人がいるならば、きっとその人は他人の成功を「羨んでいる」のでしょう。「嫉妬とは、人が持っているものを羨むことであり、同時に人が持たないことを喜ぶ感情」です。騙されてはいけません。もっともらしい正義の背後には、人間の「最も汚い感情」が隠れていることが多いのです。

私たちが学ぶべき「出世についての訓練」は、次のことです。◆第一に、出世できなくても、決して卑屈にならないことです。努力しても与えられないのは、今のあなたには必要ないからです。しかし努力することをやめてはいけません。◆二番目に、出世できても、決して天狗にならないことです。それを与えてくださったのは「神様」です。「与えてくださった方への感謝」を忘れてしまうとき、その成功が「災い」となってしまうのです。

「乏しいからこう言うのではありません。
私は、どんな境遇にあっても
満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、
豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、
富むことにも乏しいことにも、
あらゆる境遇に対処する
秘訣を心得ています。」
(ピリピ4章11-12節)

第25回「幻滅に対する訓練」 ルカ24章1-35節

本日の学びは「幻滅に対する訓練」です。私達は、もう既に「遅延」「絶望」「病気」と学んできました。それらも広い意味での「幻滅の訓練」かもしれません。でも私達は改めて「幻滅の訓練」を学びたいと思います。なぜならクリスチャンにとっての幻滅とは、単に希望を失ってしまうことではなく「永遠の希望」に私達の目を開かせる「大切な訓練」でもあるからです。どういうことでしょうか…。

イエス様を目の前にして、二人の弟子たちは言いました。「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだと望みをかけていました」と。「望みをかけています」ではなく「望みをかけていました」と過去形で言ったのです。彼らは深く幻滅していました。「もう終わりだ」と感じていました。「どうして『キリストの復活』を信じられるものか」と感じていました。もうすべては「過去」の話だったのです。

彼らが信じたイエス様は、病人を癒し、群集に食べさせ、威厳をもって語られる力強いイエス様だったのです。そんなイエス様に出会い「この方こそイスラエルを購う、救い主(メシア)に違いないという望みをかけ」全てを捨ててイエス様に従って来たのです。でもそのイエス様は十字架につけられて死んでしまい、三日もたっていました。だから彼らは暗い顔をして、うつむき、論じ合っていたのです。

彼らには、復活のイエス様がまったく見えませんでした。彼らの「信じていた」イエス様は、もう既に十字架上で死んでしまったからです。彼らの幻滅はあまりにも深く、目の前のイエス様に気付くことも出来ませんでした。しかし彼らの「自分なりの悟りに基づく信仰」が砕かれてしまったことは、長い目で見れば幸いでした。なぜならその痛みを通して、彼らは本当の意味で見える者とされたからです。

多くの信仰者が「幻滅」を通して、信仰に深みに達するのはそのためです。エマオの途上で「二人の目はさえぎられて」いましたが、私達の霊的な目も様々なものにさえぎられています。それは「自分なりの悟り」や「思い込み」や「勝手な期待」かも知れません。しかし、良くも悪くも深い「幻滅」を味わうことによって、長い年月をかけて築いてきた、「自分なりの信仰」は粉々に砕けてしまうのです。

その時もう一度、真剣に聖書に向かい合うことが大切なのです。イエス様は「聖書全体の中からご自分について書いてある事がらを説き明かされ」ました。具体的には、ご自分の復活を聖書そのものから証明されたのです。するとどうしたことでしょう。二人の心が「内に燃え」はじめたではありませんか!それは奇跡を見た時のような激しい燃え方ではありませんでしたが、確かに力強い信仰の炎でした。

あなたは幻滅を感じた時どうしていますか。「失ったもの」に固執し、幻滅の沼にどっぷり留まり続けますか?人とのおしゃべり明け暮れ、何とか人からの同情や慰めを引き出そうとしますか?そこに本当の解決はありません。大切なのは聖書を開き、時間をかけて神様とじっくり交わることです。その時、私達の心は静かに燃え始めるのです。聖書に深く根ざした信仰は、少々のことでつまずきません。

私達はもしかしたら、今まさに「エマオの途上」にいるのかもしれません。失望と落胆が、私達を激しく揺さぶっているかもしれません。幻滅の谷はあまりにも深く、私達には渡りきれないと感じているかもしれません。◆しかしあなたが信仰を持って、目を上げるなら、インマヌエルの主が、共に歩んでおられることを知るでしょう。恐れる必要はありません。深い「幻滅」を乗り越える時、そこに「本当の希望」が見えてくるのです。

「道々お話しになっている間も、
聖書を説明してくださった間も、
私たちの心は
うちに燃えていたではないか。」
(ルカ24章32節)

草は枯れ、花はしぼむ。
だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
(イザヤ40章8節)

2008年4月14日月曜日

第24回「病気による訓練」ヨハネ9章1-3節,11章17-27節

本日の学びは「病気による訓練」です。この問題は、死の問題と並んで、一回きりで学びきれるものではないし、絶対的な答えがあるわけでもありません。いってみればこれは「主の奥義」に関することです。しかしその時になって、慌てふためかないためにも、普段からこの問題に、真摯に取り組んでおくことは大切です。まずは「人生の訓練」の著者、エドマン博士の言葉に耳を傾けてみましょう。

地のちりから造られた私達は、ありとあらゆる肉の弱さにさらされやすい。中でも無視できないのは「病気」である。私達は健康なとき、それを素晴らしいとは思わず、それを与えてくださった方に感謝をしようともしない。しかしいざ病気になると、体は自由に動かず、昼は寂しく、夜は長くなり、喜びは落胆となり、歌はため息となり、自然に涙が溢れてくる。それが「病気による訓練」である。(P253要約)

この訓練の最大の難関は、沸きあがる「疑問の声」であろう。どんな苦しみの中でも、希望と愛に対する確信があれば、歯を食いしばって耐えることが出来る。でも、その確信を失い、疑いに飲み込まれるとき、私達は本当の苦しみを経験する。その時私達はこう考える。「なぜこんな病気にならなくちゃいけないの?」「私に何か落ち度があったの?」「なぜ神は何もしてくださらないの?」(p253-254意訳)

イエスの弟子達も同じように考えた。彼らは盲人の前でこう言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか(9:2)」と。今までどれだけ多くの人々が、同じような冷ややかな視線や言葉に痛めつけられてきたことだろうか。間違った神学は、助けとならないばかりか、痛めつけられた家族を、更に苦しめる。それ以上に、残酷な言葉はない。

しかしイエス様の答えは全く違っていた。イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです(3)」と答えられた。周りはとやかく、ああだ、こうだと「因果(いんが)探し」をする。しかしイエス様は「目的」を教えられた。ラザロの時もそうだった。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです(11:4)」と言われた。その視線の先には希望が満ち溢れ、目の前の人に対する深い哀れみで満ち溢れていた。

でも多くの人々はこの言葉を誤解している。「神のわざがこの人に現れる」ということを「奇跡が起き癒されること」だけだと決め付けている。気持はわかるが「神様がどのように栄光を表すか」を私たちが決めることは出来ない。それは陶器が、陶器師に向かって「こうせよ」と命令をするようなものである(イザヤ29:16)。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに深入りしません(詩篇131:1)」。これこそ私達のとるべき態度である。

それでは「神の栄光」とは何であろうか?イエス様はマルタにこう言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と。◆つまり「神の栄光」とは、この『キリストにある永遠のいのち』が明らかになることなのです。それは癒しによってかもしれないし、別な方法によってかもしれません。それは分かりません。◆ただ一つ言えることは「私にとっては、病気になることも、癒されることも、生きることも、死ぬことさえも、この神の栄光につながるならば益」なのです!

たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、
測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(Ⅱコリント4章16-18節)

2008年3月13日木曜日

第23回「侮辱に耐える訓練」 マルコ11:1-11 15:1-20

以前、私達は「中傷に対する訓練」について学びました。その時はナバルに侮辱され激高したダビデが(Ⅰサム25章)、歳を経て、同じようにシムイに侮辱されたときには「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」と言い得るまで訓練されたことを学びました(Ⅱサム16章)。今回も似たような内容ではありますが、「侮辱」についてイエス様の生涯から学びましょう。

侮辱に耐えることの難しさについてエドマン博士がこう指摘しています。「侮辱や軽蔑に耐える訓練ほど忍耐力を試みるものはない。私達は自分に対する陰謀を無視することや、当てこすりなどに知らない振りをすることは出る来かもしれない。しかし、明らかに人を軽蔑した、ののしりの言葉や態度に耐えることが出来るだろうか?私達は侮辱されることについては本当に弱いのである。軽蔑に満ちた扱いを受ければ卑屈になり、侮辱されればけんか腰になってしまうのである。(p243)」

しかも「賞賛」と「侮辱」は、よく立て続けにやってきます。イエス様の場合がそうでした。十字架に付けられる6日前に、イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城したところ、群衆は手にはシュロの葉を持ち、道には自分達の服を敷き詰めて、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」と喜び叫んだのです。そこにラザロも一緒にいたことが、彼らの歓喜をさらに増し加え、喜びの歌声は、エルサレム中の建物を振るわせたことでしょう(ヨハネ12章)。

その同じ口が、一週間後には「十字架につけろ」と叫んでいたのです。なんという変わり身の早さでしょうか!結局彼らの熱狂は何だったのでしょうか?それは実に浅はかな、「奇跡見たさの熱狂」であり、イスラエルの救いを待ち望む「ナショナリズム的熱狂」だったのです。そして、そんな自分達の(身勝手な)期待が裏切られると、彼らは手のひらを返したようにイエス様を憎み、あざけり、痛めつけ、侮辱の限りを尽くし、ついには十字架にかけて殺してしまったのです…。

私達は人の評価に振り回されてはいけません。褒めちぎる人、お世辞を言いすぎる人、そういった人の言葉に躍らされ、勘違いしてしまってはいけません。熱狂しやすい人ほど冷めやすく、その言葉は非常に無責任です。「賞賛」と「侮辱」は常に紙一重で、大げさな賞賛ほど、むごい「侮辱」に変わりやすいのです。そのことを忘れて自分まで一緒に舞い上がってしまうとき、ちょっとした「侮辱」にも耐えられず、自尊心は粉々に砕かれ、落胆の沼に突き落とされてしまうのです。

侮辱を受けた際の、最高の模範はイエス様です。イエス様は、人々の熱狂にも、決して踊らされることなく、侮辱に対しても、打ちひしがれてしまうことはありませんでした。いつもその目は「アバ父」に向けられ、そのお方の前で「自分が何者であるのか」「どれほど愛されているのか」「自分の使命は何であるのか」を自覚しておりました。だから十字架という極限の状態の中でも自分を見失わず「父よ彼らをお赦しください(ルカ23:34)」と、人のために祈ることが出来たのです。

「神様は私へのそしりと、私の恥と私への侮辱とをご存じです(詩篇69:19)」。私たちはこの事を本当に信じているでしょうか?神様は、私たちの苦しみを全てご存知で、ともに苦しんでおられるのです。◆そればかりではありません、私たちが侮辱され、怒りに震え、心の中で相手を罵っているときにも、イエス様は、そんな私達のために「父よかれらをお赦しください」と祈っておられるのです。◆そう祈られる者として、私たちも、侮辱する者のために「父よ、彼らをお許しください」と祈ることは出来ないでしょうか?

あなたをのろう者を祝福しなさい。
あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
(ルカ6章28節)

第22回「不平不満に対する訓練」 民数記11章

今回のテーマは「不平不満に対する訓練」です。どうでしょうか?みなさんは、現在、何の不満もないでしょうか?もしかしたら「はい、私は何の不満も持っていません」と答えられる人がいるかもしれません。しかしその「満足」でさえ、ちょっとしたことで、「不平不満」の原因に変わってしまう事だってあるのです。

例えば他の人と比べてしまうことです。すると今まで持っていた「小さな幸せ」が、とたんに色あせて見えてしまい、惨めな気持ちになり、人をうらやむようになってしまいます。そして、それまで感じていなかった、不平不満が生まれるのです。ダビデもそうでした。彼はもうすでに十分に与えられていたのに、バテシェバを見た時に、「与えられているもの」だけでは満足できなくなってしまったのです。

荒野でのイスラエルの民も同じでした。彼らには「マナ」を与えられていました。それは聖書によると「コエンドロの種のようで、色はブドラハのようで」ありました。またそれで作ったパンは「おいしいクリームの味のよう」でした(11:4-8)。まさに「天からの食物」です!なのに彼らは、激しい欲望にかられ、大声で泣きながら「ああ肉が食べたい!(11:4)」と、わめき始めたのです。なぜでしょうか?

彼らはエジプトでの食事を思い出したのです。彼らは言いました。「ああ肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ」と。彼らだって、最初のうちは感謝でいっぱいだったのです。しかし次第にそれが「当たり前」になり、よりによってエジプトでの食事と比べて「不平不満」を並べはじめたのです。何という恩知らず!

もともとは奴隷であった彼ら自身が「助けてください」と叫んだのです(出エジ2:23)。だから神様はモーセを遣わして「パロの圧制」から彼らを救われました。そればかりか「乳と蜜の流れる約束の地カナンに、あなたがたを導く」との約束まで与えられ、雲の柱と火の柱が荒野での40年間、彼らを守り導いていたのです。何か不足があったでしょうか?いいえ。しかし彼らにはなおも不平不満がありました。

不平不満は恐ろしいものです。なぜなら与えられている恵みに対して、私達の目をふさいでしまうからです。あなたは大丈夫ですか?すでに見切りをつけたはずの過去の世界を思い出し「あの頃のほうが」と感じていないでしょうか?もしくは身近な誰かと比べ、「あの人はいいなぁ、それにひきかえ私は…」とみじめな気持ちになっていないでしょうか。または、そんなこと全然関係なく、とにかく「なんで私ばっかり」と不平不満をふくらませ自己憐憫に陥っていないでしょうか?

もしそうなら、無い物ねだりをやめ、与えられている恵みに感謝することです。きっとあなたにも、もうすでに多くの恵みが与えられているはずです。あなたには、何よりもイエス様の十字架によって「永遠の命」が与えられているではありませんか!パウロはこう言いました。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです(Ⅰテモテ6:6-8)」と。

愚か者よ、「あぁ肉が食べたい」と言う口をふさぎ、既に与えられている「マナ」に感謝しなさい。それでもまだ「足りない」と言うのなら、なお更のこと、私達にとっての約束の地「神の国とその義とをまず第一に求める」生活をする事です。決して、後ろ(エジプト)を振り返ってはいけません。そうすれば、私達の必要を誰よりも知っておられる天の父が、溢れんばかりの祝福を持って、私たちの必要を「全て」満たしてくださるのです。

だから、神の国とその義とを
まず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)

2008年3月5日水曜日

第21回「識別力における訓練」 Ⅰヨハネ4章

私達は以前にも何回か、同じようなテーマで学んだことがあります。しかし敢えてもう一度、このテーマについて学んでみたいと思います。なぜなら私達の人生は「決断の連続」だからです。エドマン博士はこう書いています(p225-226要約)。

「私達は日々襲い来る出来事に対して、鋭い洞察力をもって対処していかなければならない。しかし私達はどのように知ることが出来るのだろうか?果たしてそれらが本当に、全能なる神様の愛のから出たことなのか、それとも破壊的な暗闇の力から出たものであるのか。この試練は、主が自分に与えられた、負うべき十字架なのか、それとも避けるべきサタンの罠なのか?壁にぶつかる時は、御霊が禁じておられるのか、それとも悪魔が妨害しているのか?苦しみの中で差し伸べられる援助の手は、主が使わされた天使のものなのか、それとも妥協させるための甘い誘惑か?私達は一体どうしたらそれらを識別することができるのだろうか?」

結局のところ明快な解答はないのかもしれません。多くのことは、後になってから「あぁ、あれは、主が与えられた試練だったのだ」とか「あぁ、危なかった、もう少しでサタンの罠にはまるところだった」と言えるものですし、私達は決して安易に、「それは神様の御心だ」とか「サタンの誘惑だ」などと、自分なりの神学を振りかざすべきではありません!そんな時、私たちは、ただ沈黙の内に祈り、御言葉に聞き、手探りで「主の御心」を追い求めていくしかないのです。そしてそうした中で徐々に「識別力は訓練」され、私達は「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人(ヘブル5章14節)」へと成長していくのです。

しかし、そんなのんきなことも言っていられません。私達は今日も何かを決断しなければならないのです。もちろん、スーパーマーケットで大根を買うのが「御心か」などと、ノイローゼ気味になる必要はまったくありませんが、大事なことに関しては、やはり「それが本当に御心なのか」を吟味しなければならないのです。ではどうやって吟味したらよいのでしょうか。いくつかの原則を紹介しましょう。

まずは「ただ自分の欲によって決断しようとしていないか」と吟味することです。聖書にははっきりと「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではありません(ヨハネ2:16)」とあります。自分の欲望に目がくらみ、目先の利益だけを追い求める人生、それこそが聖書で言うところの「罪(ハマルティヤ)」なのです。

だから私達はいつも「本当にそれが、永遠の前で価値のあることかどうか」を吟味しなければならないのです。この世で欲しいものを手に入れ、やりたいことを全部やったとしても、それが永遠の前に何の意味があるのでしょうか?私達はむしろ、この世では損をしようとも、本当の意味で天に宝を積む事を選択すべきなのです。

そして最後に「それは本当に愛から出ているか」と吟味することです。この場合の愛とは、自分を愛する「自己愛」のことではありません。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛すること』そして 『あなたの隣人をあなた自身のように愛すること』(マタイ22:38-39)なのです。この愛から出た、「言葉」「行い」「決断」こそが、神様の御前に「真に優れたこと」なのです!

あなたの「識別力アンテナ」は研ぎ澄まされているでしょうか。それとも長いこと使っていなくて、すっかり錆付いてしまっているでしょうか?◆「識別力の訓」は、使えば使うほど研ぎ澄まされます。その人は本当の意味で、ますます「豊かに」なるのです。


私は祈っています。
あなたがたの愛が、
真の知識とあらゆる識別力によって、
いよいよ豊かになり、
あなたがたが、
真にすぐれたものを見分けることが
できるようになりますように。
(ピリピ1章9-10節)

2008年2月27日水曜日

第20回「落胆に対する訓練」ヨブ記 ヘブル12章

前回のテーマは「疲労困憊に対する訓練」でした。私達はエリヤの生涯から、疲労困憊に陥ってしまうとき、まず必要なのは、十分な休息と肉体の栄養であることを確認しました。しかしそれだけでは霊的な疲労は取れず、最終的には神の前に出て「細き御声」を聞き、人生に新しい「使命(ミッション)」をいただくことが大切だと学びました。今回もその内容と非常に良く似ていますが、また違った角度から学んでみたいと思います。今回のテーマは「落胆に対する訓練」です。

まずは、自分ではなく、他人が落胆していたらどうしたらよいのかを考えましょう。その反面教師がヨブの友人たちです。エリファズはヨブに言いました。「さあ思い出せ。誰か罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ(4:7-8)」と。これを聞いてヨブの心はどんなに痛んだことでしょうか!最も慰めを必要としている時に、よりによって友からお説教され、裁かれてしまったのです。ヨブは言いました。「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう(6:14)」つまり、それくらいの悲しみだったのです。

私達は、苦しむ友に対して、ヨブの友人のようなことを言ってはいないでしょうか?クリスチャンの熱心さは、時に人を大きく傷つけます。聖書にはこうあります。「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい(ヤコブ1:19)」また「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」と。神様は最終的にエリファズをこう叱責されました。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それはあなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ(42:7)」と。人を裁くものは、その同じ秤で持って、神様によって裁かれるのです(マタイ7:2)。

では、逆の立場ではどうでしょう。思いがけない不幸が、自分の家族に災いが襲ってきて…。自分だけは何とか頑張ろうと思っても、自分まで病気になってしまい…。精神的にも肉体的にも追い詰められ、親しい友人には「分かって」もらいたいと思っても、友人は友人で自分のことで精一杯で、全く理解されず…。おせっかいな友人にはお説教をされ…。そうこうしている間にも、段々と気力も体力も奪われ、気付けば「落胆の沼」へとどっぷりはまり込んでいる。そんな時私達は、周りの全てを遮断し、自分の殻に閉じこもってしまいたいという誘惑にかられます。

しかしそこであえて「走り続ける」という選択肢もあるのです。これは全ての人にはお勧めできません。普通だったら休んだほうがいいのです。ゆっくり休んで、祈りと御言葉に時間を割き、癒されるのも一つの方法でしょう。しかし健康的にボロボロになっても、精神的にズタズタになっても、霊的スランプに落ち込んでいても、それでも尚「主イエスを見上げて走り続ける」という第三の道があるのです。そうすることによって、ある人々は健康なときには知りえなかった「弱さにおける恵み(Ⅱコリ12:9)」や、自分の力によらない「御霊の原理(ローマ8章)」を体験するのです。その時私達の信仰の扉は別次元に向かって大きく開かれます。歴史上の信仰の偉人と呼ばれる人々は、大体そういうところを通らされた人達です。

この中にも「落胆している者」があるでしょうか?「もうダメだ」と感じている人がいるでしょうか?そんな時はあえて走り続けることが、あなたの心を守ってくれることもあるのです。◆すると不思議なことに、ふと足が軽くなる瞬間がやってきます。自分の力ではなくて、主の恵みと御霊の力によって、走っていることに気付く時がやってくるのです。

「忍耐をもって
走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、
完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
あなた方の心が元気を失い、
疲れ果ててしまわないためです」
(ヘブル12:1-2、4)