2007年12月8日土曜日

第15回「絶望における訓練」(マタイ14章22-33節)

今回のテーマは「絶望における訓練」ですが、果たしてクリスチャンの生涯は、苦悩や危険、絶望や落胆と無縁でしょうか? いいえそんなことはありません。クリスチャンにも、失望や緊迫、過酷や拷問的な苦しみの瞬間があります。そして自分自身や、自分の愛する者が、生と死の天秤に乗せられることもあるのです。私たちには、それを自分の願う方向に傾ける力はありません。そのために何かをすることも、気を失うことも許されず、ただ神様に向かって祈るほかないのです。

その時、信仰を持たない人はなんと無力でしょうか。祈るべき方を知らないということは、何という孤独でしょうか?助けを求めるべきお方を知らないということは、なんという悲劇でしょうか?主の耳は、私達の叫びが聞こえないほど鈍くはありません。主の御手は、私たちを救えないほど短くはありません。このお方を知り、どんな時にも「主よ助けてください!」と祈ることの出来る人は幸いです。

ペテロはそんな信仰の持ち主でした。彼はただの「信仰の薄い人」ではありません。確かに彼のやり方は、性急で、彼らしく、危なっかしさを含んでいました。しかし彼は少しでもイエス様に近づきたくて、「来なさい」と言われれば、水の上を歩くという危険を冒してでも、イエス様に従いたいと思っていたのです。私達は往々にして、舟の中に黙って座っていた、11人のようではないでしょうか。理にかなったことだけを求め、決してイエス様のために冒険しようとしないのです。

しかしイエス様に従う者は、時に「人生の嵐」に遭遇するのです。聖書にもこのようにあります。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです(ピリピ1:29)」。この言葉に躓いてしまう人もあるかもしれません。怖くなって、自分の「舟」に引き返し、しがみついてしまう人もいるかもしれません。しかし主イエスを愛する者は、それでも自分の舟を降りて、未知の湖面に体重をかけ、一歩一歩進んでいくのです。

イエス様から目を離すときに、恐れが、私達の心を覆い尽くします。ペテロもそうでした。彼は「風を見て、こわくなり、水に沈みかけた」のです。私たちも同じです。困難や試練に会う時に、イエス様から目をそらし、この世の波風ばかりを見てしまう時に、「失望」「落胆」「絶望」という湖に沈んでいってしまうのです。そう考えると、極端な恐れは、やはり不信仰の結果だと言わざるをえません。イエス様に対する畏れがなくなるとき、私達は「人生の嵐」を恐れてしまうのです。

イエス様はそんなペテロの手をつかみこう言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と。それは決して一方的な叱責ではありませんでした。その証拠に、見上げると、そこにはペテロの手をしっかり握っておられる、慈愛に満ちたイエス様のまなざしがあったのです。私たちも同じです。人生の嵐の中でイエス様に「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」といわれてしまうかもしれません。しかしそんな時でも、イエス様の御手は、私達をしっかりと握って、離さないのです。

信仰とはなんでしょうか?それは、自分の力でイエス様の御手をしっかり握ることではありません。そうではなくて、たとえ絶望的な状況の中でも、私たちの手をしっかり握って離さないイエス様の御手を覚え、その愛に信頼し、この方を恐れ、イエス様から目をそらさないことなのです。その時私達の歩みは、試練の中でも決して揺るぐことがありません。

信仰の創始者であり、完成者である
イエスから目を離さないでいなさい。
(ヘブル12章2節)

それは、地のすべての民が、
主の御手の強いことを知り、
あなたがたがいつも、
あなたがたの神、主を恐れるためである。
(ヨシュア記4章24節)

第14回「孤独を通しての訓練」

今回のテーマは「孤独を通しての訓練」ですが、はたして私達は、孤独から何かを学ぶことが出来るのでしょうか?人には、孤独を愛する人や、孤独が苦手な人など、色々いますが、誰一人として「完全な孤独」の中で生きていける人はいません。人間は、読んで字のごとく「人々との間で生きていく存在」だからです。

ある人は、孤独を誤魔化すために、賑やかさを求めます。放蕩息子もそうだったのかもしれません。遠い国に旅立ち、家族や友とも切り離され、本当は孤独だったのかもしれません。だからこそ、その寂しさをまぎらわせるために、お金を湯水のように使い、宴(うたげ)の中に身を置き、自分自身を誤魔化していたのかもしれません。しかし金の切れ目が縁の切れ目、お金が無くなった途端に、友は離れて行き、置かれた現実(本当は孤独な自分)をまざまざと見せつけられたのです。

その時、彼は我に返り「本当の交わり」を求めはじめました。それは、自分のことを誰よりも愛してくれる、お父さんとの交わりでした。それまでは、その愛が自分にとって、それほど重要なことだとは感じていませんでしたし、むしろ「わずらわしい」とさえ感じていました。しかし孤独を通して、彼はその重要性に目を開かれ、父のもとに帰っていったのです。この父こそ「父なる神様」のことなのです。

私たちにも孤独は必要です。この世の賑やかさに心を奪われている間は、「神様との交わり」なんて、それほど重要だとは思えないかもしれません。多くの人は、神とか教会とか、何だか窮屈に感じるのもそのためです。しかしそんな人も、本当の孤独を経験する時に「わたしはあなたを愛している」と言ってくださるお方の存在に気付き始めるのです。そして我に返り、「アバ父(天の父)」のふところに帰っていき、そこで新しい兄弟姉妹の交わり(教会)を経験し始めるのです。

ボンヘッファーはこう言いました(「共に生きる生活」p71)。「この世の作り出す『賑やかさ』の正体とは、驚くべき孤独を作り出すところの陶酔(とうすい)状態である。それはしばらくの間、孤独を忘れさせてくれるかもしれないが、その陶酔状態から覚めれば、以前にも増した孤独が襲ってくる。そして、そのようなことを続けるなら、我々はやがて精神の死へと行き着くのである」と。この精神の死こそ、本当の交わり、つまり父なる神様と兄弟姉妹との、交わりの喪失なのです。

イエス様は、いつも「寂しい所」に退かれました。そして、自分をあえて孤独の中に置き、常に父なる神の細き御声に耳を傾け、一日を始めらました。そして、ただ寂しいところに閉じこもっていないで、多くの人々と触れ合われたのです。だからこそ、イエス様の言葉と行いには「不思議な力」がありました(マタ7:29)。

聖書には「黙っているのに時があり、話をするのに時がある(伝道3:7)」とあります。私たちには、この両方が必要なのです。主の前に黙ることをしない者は、いくら饒舌(じょうぜつ)に語り、おせっかいをやいても、それは、うるさいドラやシンバルのようなものです。しかし反対に、黙ってばかりいて、一人とじこもっていても何も始まりません。神様と兄弟姉妹は、あなたと語り合いたいと待っています。

あなたは主の前に静まっていますか?世的な賑やかさや、メールや長電話によって、本来感じるべき孤独を誤魔化していませんか?そしてますます孤独になっていませんか?◆まずは主の御前で孤独になること。その時、聞こえなかった心の叫びや、主の細きみ声が聞こえてきます。孤独を知るもの同士が集まるときに、真の交わりが生まれるのです。

キリストのことばを、
あなたがたのうちに豊かに住まわせ、
知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、
詩と賛美と霊の歌とにより、
感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
(コロサイ3章16節)

2007年11月22日木曜日

第13回「欲望に対する訓練」

今回のテーマは「欲望に対する訓練」ですが、この世には、様々な欲望が渦巻いているのではないでしょうか?以前もお話しましたが、私が牧師になる時、ある老齢の牧師がこのようなアドヴァイスを下さいました。「川村さん、あなたが牧師になったら、私も気をつけていることですが、特に三つの『欲』に気をつけなさい。それは「金銭」「名誉」「性欲」ですよ」と。驚いてしまいました。なぜならその先生はとても聖く、そのような欲望とは無関係のように思えたからです。

私達は誰もがこの『欲望』とは無関係ではありません。自分の心を「映写機で移しても平気」と言える人がどれくらいいるでしょうか?私達の心の中には「欲望」が、台風のごとく渦巻いているのです。聖書の中には「肉の欲」のリストとして「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」などが上げられていますが、はっきり言って、そのような者が、そのままで「神の御国に入ることはない(ガラ5:19-21)」のです。

また聖書には「世を愛してはなりません(Ⅰヨハ2:15)」とも書いてあります。でもおかしくはないでしょうか?ヨハネ3章16節には「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあるではありませんか。しかし同じ「世を愛する」という言葉でも、その意味するところは全然違うのです。神様がこの世を愛される場合、罪にまみれた世界を、悲しみをもって愛しておられるのですが、私たちの場合はそういった悲しみなどなく、この世を「溺愛」してしまうのです。

ジョンウェスレーはこう言いました(p136)。「何でも、キリストに対する私達の愛を冷やしてしまうものが『世』である」と。つまり、あまりにも熱中しすぎて、イエス様を忘れさせてしまうもの、そして霊的な飢え渇きをマヒさせてしまうもの、それが私達にとっての「世」なのです。「読書」「スポーツ」「趣味」など本来は健全なものでも「世」となってしまいます。ふと気づくとそのことばかりを考えていて、聖書の話が心に響かなくなったら黄信号です。あなたは大丈夫ですか?

もし欲望の罠にはまってしまったら、どうしたらよいのでしょう?答えは「逃げなさい!」です。聖書には「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい(Ⅰペテ2:11)」「悪はどんな悪でも避けなさい(Ⅰテサ5:22)」とあります。逃げるなんて臆病だと思いますか?そうではありません。自分の「弱さ」を認め、逃げることの方が勇気のいることなのです。また、誘惑する人にも近づいてはいけません。聖書にはこうあります。「彼らの仲間になってはいけません(エペソ5:7)」と!

その上で、人をも誘惑してはいけません。あなたにとっては平気なことであっても、他の人には誘惑となることだってあります。あなたにとっては、お酒を飲むことが平気なことであっても、それを勧める事によって、相手が深刻な影響を受けてしまうことだってあるのです。また同じ理由で、女性は肌の露出をしすぎないよう服装に気をつけるべきでしょう。クリスチャンは、律法主義ではなくて、弱い人への配慮から、自分の権利を控えるべきなのです。聖書にはこうあります。「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです(ルカ17:2)」と。

もしもあなたの心が欲望に負けそうになったら、早めに、それを明るみに出しなさい。それを神様の御前に告白し、信頼できるクリスチャンに何度も何度も祈ってもらいなさい。◆もし失敗してしまっても、それを何度も繰り返しなさい。一度誘惑に負けた人は、人一倍誘惑も強く感じるものです。一人で暗闇を歩み続けるより、光の子らと共に歩むのです!

こうしてあなたがたは、地上の残された時を、
もはや人間の欲望のためではなく、
神のみこころのために過ごすようになるのです。(Ⅰペテロ4:2)

第12回「悪意に対する訓練」

今回のテーマは「悪意に対する訓練」ですが、そのことをダビデの生涯を通し学びたいと思います。少年ダビデは一介の羊飼いでした。その彼が、サウル存命中に、王としての油注ぎを受けるのですが、そのことはしばらく公表されず、彼は、サウルのお抱えの琴奏者として王宮に出入りしていたのです。ですがゴリアテの一件があり、ダビデの人気は国中に一気に高まり、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と騒ぎ立てられます。それは大いに、サウルの機嫌を損ねました。

そして、その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになったのです。この「疑いの目」とは、新共同訳聖書で「ねたみの目」とも訳されていますが、サウルは、王である自分より尊敬と人気を勝ち取ったダビデに、激しい嫉妬を抱いたのでした。Ⅰテモテ6章4節には「疑いをかける病」があるといいます。そして、いったんこの病にかかってしまうと「そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、絶え間のない紛争が生じる(同5節)」のです。嫉妬の病は実に恐ろしい!

エドマン博士は、この「ねたみ」について、こう指摘します。「ねたみというものは、どんな場合でも、残酷なものである。ねたみのゆえにアベルはカインに殺され、ヨセフは兄達の手によって奴隷として売られ、キリストは十字架に付けられた。ダビデも、このねたみのために苦しめられた。彼は従順で、謙遜で、慎み深い一平卒にしすぎなかったのに、王のひがみ根性のゆえに命を狙われた(p130~)」と。しかしそれでもギリギリのところまで逃げ出さず、最後の最後まで王のために琴を弾き続けたのです。一体ダビデはどんな気持ちで琴を奏で続けたのでしょう…。

私達はどうでしょう。ダビデの様に、人からの悪意にさらされても、その悪意に毒されず、振り回されず、逃げ出さず、自分を保ち続けることが出来るでしょうか?その只中にあっても、その悪意を持つ人に仕え続け、最後まで、誠実を貫き通すことが出来るでしょうか?ダビデは、その「訓練」に勝利を収めることが出来ました。だからこそ神様は、ダビデに多くのもの(賜物、奉仕)を任せたのでしょう!

ある人は言うかも知れません。「いやぁダビデは、サウルが、主に油を注がれた方だったから、手を下せなかっただけさ(24:6)」と。確かにそういう面もあります。しかし言い訳は許されません。新約聖書には、はっきりこう勧められているからです。Ⅰテサロニケ5章15節「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい」と。

それを本気で実行しようとする時、私達の主に対する「信頼」が試されます。主に信頼していないと、どうしても自分の判断で逃げ出したくなる。また、自分に力があれば、どうしても何倍にもして復讐したくなる。しかしローマ12章19節にはこうあります。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをすると主は言われる』」と。悪意に悪意で答えては絶対にいけません!

つまり「悪意に対する訓練」とは、この「主に信頼する訓練」でもあるのです。ただ悪意に対して我慢するだけではない、主に信頼し、相手の祝福のために祈るのです。それができて、初めて「悪意に対する訓練」に合格することができるのです。◆もし私たちが、この訓練を真正面から乗り越えるなら、日々襲いくる困難にもめげず、悪意にも押しつぶされず、多くを任されるクリスチャンになるのです!

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、
かえって祝福を与えなさい。
あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
(Ⅰペテロ3:9)

第11回「喜びについての訓練」

今回のテーマは「喜びについての訓練」ですが、ある人はこのテーマを聞いて奇妙に思うかもしれません。「喜び」と「訓練」は、矛盾する、二つの事柄だと思っているからです。しかしこの二つは、少しも矛盾しません。喜ぶべきことをしっかり「喜び」、それを「いつも」しているためには「訓練」が必要なのです。

世間一般で言うところの「喜び」とは、非常に感覚的なものです。普通、人は良いことがあれば喜び、不幸な出来事があれば悲しむのです。確かにそれも間違いではありません。伝道者の書にも「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ(7:14)」とあります。しかしそれだけでは「いつも喜んでいる(Ⅰテサ5:26)」ことは出来ません。聖書が言うところの「喜び」にはもっと別の意味があるのです。それはどういう意味なのでしょうか?「~ではない」という形で説明してみましょう

聖書でいうところの「喜び」は、この地上における満足だけを意味しているのではありません。伝道者の書の著者であるソロモンは、人類史上もっとも栄華を極めた人物の一人でした(マタ6:29)。その彼が人生を振り返り残した言葉が「空の空すべては空(1:2)」「何とむなしいことか。それがいったい何になろう(2:1-2)」だったのです。神様は人に「永遠への思い(3:11)」を与えられたので、本来その「思い」が満たされない限り、深い「満足」と本当の「喜び」は経験できないはずなのです。しかしその健全な「むなしさ感」さえ麻痺してしまうこともあります。

イエス様のたとえ話における「金持ち」がそうでした。彼は言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ(ルカ15:19)」と。彼は二つの点で愚かでした。一つは、この世の物質だけで満足してしまい、その快楽に魂まで売ってしまったことです。お金で買えないものはないと考える人も同じです。そしてもう一つは、自分だけを喜ばせようとしていた点です。彼の「喜び」は、どこまでも俗物的で、自己中心的でした。

ある人は「私は違う」と言わんばかりに、「私はもっと精神的な満足を求めています」と言うかもしれません。確かに私達は、誰かを愛し、誰かから愛され、誰かのために生きる時、物質的な満足なんかより、もっと深い喜びを経験します。しかしその「喜び」でさえも完全ではありません。愛しても愛されないとき。尽くしても感謝をされないとき。そして、大切な人を失ってしまうとき。それでも私たちは「いつも喜んでいる」ことが出来るでしょうか?内面からの喜びは一時的です。

聖書は私たちに、無理な要求を突きつけているのでしょうか。いいえ違います。 そもそも聖書が言っている喜びとは、内からこみ上げる「感情的な喜び」ではなく、信仰の結果としての「意志的な喜び」なのです。この世にあっては試練に会うこともあります。愛する人を失ってしまうこともあります。期待が裏切られることもあります。その時は心が痛んで当然ですし、とても喜べません。納得できませんし、受け入れたくありません!しかしそれでも「神様の永遠という時の中」では、すべてが繋がっていることを信じるのです。天の御国においては、すべてが明らかにされることを信じるのです。感じなくても信じるのが、本当の喜びです。

それを「感謝の先取り」といいます。御国において味わう「喜び」を、この地上において、信仰によって味わうのです。この希望があなたを失望させることはありません。それを信じ、こおどりしたってよいのです!◆感情を無視しなさいということではありません。感情も大切です。しかしクリスチャンには、たとえ涙があっても、深い喜びがあるのです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、
いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた
喜びにおどっています。この(喜び)は、信仰の結果である!(Ⅰペテロ1:8-9)

第10回「遅延に対する訓練」

今回のテーマは「遅延の訓練」です。私達は自分の願い事を祈ります。しかし、それらは必ずしもすぐにかなえられるのではなく、思わぬ「遠回り」を強いられる場合があります。また時には、願った道が閉ざされ、全く違う道を通らされることもあります。神様にはすべてが可能なら、なぜそのようなことが起こるのでしょうか?そして「遅延の訓練」には、どんな意味が隠されているのでしょうか?

パウロほど、遅延の訓練を味わった人物はいません。パウロは、あの改心の出来事の後すぐ、ダマスコのアナニヤに会いに行き、祈ってもらい、目が見える様になりました。そして多くの人は、その後すぐにダマスコでの宣教活動に入ったと思っているのですが、そうではありません。パウロは奇跡を体験した者にありがちな、燃える情熱を内に秘めながらも、その時は、誰に相談することもなく、先輩の使徒に会いに行くこともなく、寂しいアラビヤの荒野に退いて行ったのです。

なぜパウロは荒野に退いたのでしょうか?そこで「伝道した」との記録は残っていませんから、おそらく彼はアラビヤの荒野でもう一度、あの光の中でお会いしたイエス様と向き合ったのでしょう。そして祈りの内にイエス様と格闘し、より砕かれ、彼の説教の中心である「恵みの福音」に目が開かれていったのです。つまりこの「遅延の訓練」があったからこそ、彼は後の奉仕のために整えられ「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者(ヤコ1:3-4)」とされたのでした。

エドマン博士はこう勧めます(p109~要約)。「あなたも『遅延の訓練』を受けているだろうか?活躍するために静まり、強められるために弱くなり、語るために黙し、健やかになるために病み、よき友情を得るためにしばし忘れ去られ、よい機会に恵まれるためになかなか方向が示されない、というような訓練を受けているだろうか?遅延という暗闇を通して、聖徒の忍耐を学びなさい。今は分からなくても、あなたは今、後に用意されている、神様の目的のために整えられているのです」。

人の目には回り道のように見えても、それが「神様の最善」への近道なのです。例えばパウロのマケドニヤ行きです。最初、パウロはアジヤに行く予定でいました。おそらく彼は、そのために綿密な計画を立てて、もちろん祈り込み、万全の支度を整えていたことでしょう。しかし直前になって「御霊に禁じられて」しまったのです!その時彼はどうしたでしょうか?あくまで自分の計画に従ったでしょうか?いいえ違います。彼はそれらをすべて捨てて、神様の御心に従ったのです。

あなたは「自分の近道」を選択し「最善への遠回り」をしていないでしょうか?主の御心に従うとき、私達の心は「いのちと平安(ロマ8:6)」に満たされます。しかし、主の御心に背いているときは、「自分の良心が互いに責め合ったり、弁明をしたり(2:15)」しているのです。クリスチャンであれば、開き直って、主の御心に背く人はいないでしょう。しかし「これだって主の御心」だと、神様に対して弁明してしまうことはあるのです。残念ながら、それは神の祝福への遠回りなのです。

時計で考える「近道」と、永遠の基準から見た「近道」とは違います。往々にして私達は、目先の「利益」や「効率」ばかりを求めてしまいます。そして「遅延の訓練」を軽んじてしまうのです。しかし本当な大切なのは「この世でどれだけ多くのことを成し遂げるか」ではなく「神様の前にどれだけ価値のあることを成し遂げるか」なのです。それを成し遂げるためには、遅延の訓練が必要なのです。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
人には、神の御業を、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者の書3章11節

第9回「自己憐憫に対する訓練」

今回のテーマは「自己憐憫」、前回の続きです。「自己憐憫」には色々な危険な罠が潜んでいます。そしてそれに一度はまり込んでしまうと、なかなか這い上がってくることは出来ません。その罠とは何か?私たちは、どうしたらその罠に対処できるのでしょうか?(参照箇所 Ⅰサムエル21章1節―22章10節)

自己憐憫の最大の罠は「被害者意識」「ひがみ」です。聖書に登場するサウルは、見事に、その罠にはまってしまいました。そしてその「ひがみ根性」がますます人を遠ざけ、彼を孤独にしていったのです。彼は一国の王でありながら、「自分」の苦しみばかりに目を留め、部下も「自分」のために心を痛めるべきだと決め付け、それを要求していたのです。でも本当は、まず彼が王として、自分が部下の悩みに耳を傾け、その労をねぎらい、励まさなければなりませんでした。そう考えると、本当に孤独なのは部下の方でした。

自己憐憫は、私たちの心を、他人の「痛み」に対して鈍感にさせます。その時、私たちの心のアンテナは、自分の「痛み」にしか向けられていません。そして自分が一番悲しい、この痛みは誰にも分かるはずがないと決め付け、周囲に対して心を閉ざしてしまうのです。聖書にはこうあります「ただ彼は自分の肉の痛みを覚え、そのたましいは自分のために嘆くだけです(ヨブ14:22)」と。そうしていると、周りの人々も何も言えなくなり、段々あなたから遠ざかっていきます。そしてあなたはますます孤独になっていきます。

もしあなたが、そのアンテナを少しでも外に向けるなら、周りの人々も、色々な気持ちを抱えて生きていることに気が付くでしょう。主の御心は、あなたが自分の悲哀に暮れることではなく、周囲の人々と「ともに泣き、ともに喜ぶこと」です。クリスチャンは、たとえ試練の中でも、他人の「痛み」に対して、なおも心のアンテナを張り続けるのです。

人生の訓練の著者、エドマン博士は厳しくこう指摘します(p88~要約)。「自己憐憫は、人をますます哀れな人間にしてしまい、他の人に共感できない鈍感な心を生み出してしてしまいます。その人は、周りの人には『困った人だ』と思われているのに、それに気づかず、あたかも自分のことを重要人物であるかのように思い込み、皆が自分のために心を痛めるべきだと思い込んでいるのです。しかも、その無理な要求がかなえられないと、ますます悲哀に暮れるのです」。まさに悪循環です。

どうしたらこの自己憐憫の罠から抜け出せるのでしょうか?その秘訣はダビデの祈りにあります。彼はある時、命を狙われ、極度のストレスにさらされていました。そして状況はサウルと同じく、誰も彼の「たましいに気を配る者はいません(Psa142:4)」でした。でも彼は、その気持ちを、そのまま神様のところにもって行き「主に哀れみを請い、自分の嘆きを注ぎ出した」のです。これは、単なる自己憐憫とは違います。彼の周りには悲しみのオーラではなく、平安のオ-ラが漂っていました。すると不思議なことに、彼の周りには、いつも多くの人々が集まって来ました(142:7)。

もちろん信頼できる人と、悲しみを分かち合うことも大切です。しかし「神様からの哀れみ」ではなく「人からの哀れみ」ばかりを求めてしまうとき、私達は「ますます哀れな」人になってしまうのです。◆ダビデは、そんな時にこそ、まず主に、哀れみをこいました。しかしある人は思うかもしれません。「私は祈れないほど心と信仰が衰弱してしまうこともあるのです」と。確かにそうです。そんなときはどうしたらよいのでしょうか?◆そんな時は、その「祈れない寂しさを抱きしめて」その心を、そのまま主の前に注ぎだすことが出来るのです。その時、閉じかけた心の扉は、またほんの少し開かれ、その隙間から、やさしい光が差し込み、再び交わりに帰っていく勇気が与えられるのです。素晴らしい詩があります。題「寂しさを抱きしめて祈る」石井綿一「癒されない心の祈り」(教文館1998年)。最後にその一節を引用いたします。

朝に涙し 祈りつつ泣き暮れていました
時に 大声でわめくように号泣したい
何もかも投げ捨てて 誰の顔も見えない声も届かない
心の闇を さまよいたいと思いました

けれども どうすることもできない 孤独と不幸を
拒否して生きることはできないのだと
今は 思い定めています

祈れない寂しさを抱きしめて もう一度祈ります

この寂しさをエネルギーに変えて
もう一度 神様に祈りたいのです



・・・聖書の言葉・・・
私のたましいを、牢獄から連れ出し、
私があなたの御名に感謝するようにしてください。
正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。
あなたが私に良くしてくださるからです。」(詩篇142篇7節)