2008年2月27日水曜日

第20回「落胆に対する訓練」ヨブ記 ヘブル12章

前回のテーマは「疲労困憊に対する訓練」でした。私達はエリヤの生涯から、疲労困憊に陥ってしまうとき、まず必要なのは、十分な休息と肉体の栄養であることを確認しました。しかしそれだけでは霊的な疲労は取れず、最終的には神の前に出て「細き御声」を聞き、人生に新しい「使命(ミッション)」をいただくことが大切だと学びました。今回もその内容と非常に良く似ていますが、また違った角度から学んでみたいと思います。今回のテーマは「落胆に対する訓練」です。

まずは、自分ではなく、他人が落胆していたらどうしたらよいのかを考えましょう。その反面教師がヨブの友人たちです。エリファズはヨブに言いました。「さあ思い出せ。誰か罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ(4:7-8)」と。これを聞いてヨブの心はどんなに痛んだことでしょうか!最も慰めを必要としている時に、よりによって友からお説教され、裁かれてしまったのです。ヨブは言いました。「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう(6:14)」つまり、それくらいの悲しみだったのです。

私達は、苦しむ友に対して、ヨブの友人のようなことを言ってはいないでしょうか?クリスチャンの熱心さは、時に人を大きく傷つけます。聖書にはこうあります。「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい(ヤコブ1:19)」また「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」と。神様は最終的にエリファズをこう叱責されました。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それはあなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ(42:7)」と。人を裁くものは、その同じ秤で持って、神様によって裁かれるのです(マタイ7:2)。

では、逆の立場ではどうでしょう。思いがけない不幸が、自分の家族に災いが襲ってきて…。自分だけは何とか頑張ろうと思っても、自分まで病気になってしまい…。精神的にも肉体的にも追い詰められ、親しい友人には「分かって」もらいたいと思っても、友人は友人で自分のことで精一杯で、全く理解されず…。おせっかいな友人にはお説教をされ…。そうこうしている間にも、段々と気力も体力も奪われ、気付けば「落胆の沼」へとどっぷりはまり込んでいる。そんな時私達は、周りの全てを遮断し、自分の殻に閉じこもってしまいたいという誘惑にかられます。

しかしそこであえて「走り続ける」という選択肢もあるのです。これは全ての人にはお勧めできません。普通だったら休んだほうがいいのです。ゆっくり休んで、祈りと御言葉に時間を割き、癒されるのも一つの方法でしょう。しかし健康的にボロボロになっても、精神的にズタズタになっても、霊的スランプに落ち込んでいても、それでも尚「主イエスを見上げて走り続ける」という第三の道があるのです。そうすることによって、ある人々は健康なときには知りえなかった「弱さにおける恵み(Ⅱコリ12:9)」や、自分の力によらない「御霊の原理(ローマ8章)」を体験するのです。その時私達の信仰の扉は別次元に向かって大きく開かれます。歴史上の信仰の偉人と呼ばれる人々は、大体そういうところを通らされた人達です。

この中にも「落胆している者」があるでしょうか?「もうダメだ」と感じている人がいるでしょうか?そんな時はあえて走り続けることが、あなたの心を守ってくれることもあるのです。◆すると不思議なことに、ふと足が軽くなる瞬間がやってきます。自分の力ではなくて、主の恵みと御霊の力によって、走っていることに気付く時がやってくるのです。

「忍耐をもって
走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、
完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
あなた方の心が元気を失い、
疲れ果ててしまわないためです」
(ヘブル12:1-2、4)

第19回「疲労困憊に対する訓練」Ⅰ列王記19章

本日のテーマは「疲労困憊に対する訓練」ですが、人生には「山」もあれば「谷」もあります。それはクリスチャンとて例外ではありません。恵みの高嶺を歩むこともあれば、霊的スランプに陥ったり、死の陰の谷を歩んだりすることもあるのです。そしてそれらはよく、立て続けに私たちを襲います。エリヤの人生を見る時に、そのことが顕著に現れています。彼はバアルの預言者との直接対決で、劇的な勝利を収めました。しかしその直後に「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」と死を願っているのです。いったい何がおきたのでしょうか?

疲労困憊の意味を辞書で調べてたら「からだや頭を使い過ぎたり空腹の度が過ぎたりした結果、肉体的・精神的に持続力がなくなる状態」とありました。確かにこの時のエリヤは疲労困憊していたのでしょう。あのカルメル山において450人のバアルの預言者を相手に孤軍奮闘したことは、想像を絶する緊張とエネルギー、プレッシャーとストレスだったでしょう。しかもやっと勝利したのに事態は何も変わっていなかったのです。イゼベルは依然自分の命をつけ狙い「あすの今頃までに」は殺すというのです。エリヤにはもう戦う気力が残されていませんでした。

しかしそれ以上にエリヤを疲れさせたのはイスラエルの民の態度でした。彼らは確かにカルメル山での大勝利を見て「主こそ神です。主こそ神です。」と主に立ち返りました。しかしエリヤの命が狙われている今、彼らは何も言わず、立ち上がろうともしないのです。エリヤの怒り、苛立ちは、アハブやイゼベルに対してよりも、そんなイスラエルの人々に向けられていたのです。その証拠にエリヤは、主に二度も「イスラエルの人々は…私の命をねらっています(10,14)」と訴えています。彼は自分がこの民のためにしてきたことが無駄だったと嘆いているのです。

そうして彼は、生きる気力を失ってしまいました。心身の疲れに、自分のしてきたことが無駄だったという精神的な落胆、それに加えて、消えることのないプレッシャー、不安、孤独…。もしかしたら彼は「どうして主はこんなにも私を苦しめるのか」と言葉にならない不平不満を抱え、霊的スランプに陥っていたのかもしれません。そんな時、主の使いが現れ、最初に言われたことが「起きて、食べなさい(19:5)」だったのです。神様は、疲労困憊している人に、いきなり「お説教」をされません。私達の弱さを知り、まずはゆっくり休みなさいと言われるのです。

そして、その上で「ここで何をしているのか(9)」と言われました。その時の彼は、ほら穴の中にいましたが、それは彼の精神状態を表していました。彼はただ、洞穴の中に閉じこもり、自分の周囲の暗闇ばかりを見つめ、狭い世界に閉じこもっていたのです。そんなエリヤに、神様は「ここで何をしているのか」と言われました。それは単に、そんなところに閉じこもってないで明るい世界を見なさいという意味ではありません。「外に出て、山の上で、主の前に立て(11)」と言われているのです。それがなければ、どんなゆっくり休んでも、霊的な疲労は取れません。

主の前でエリヤは「かすかな細い声」を聞きました。それはカルメル山で激しい体験をし、その後スランプに陥っていたエリヤに対する、神様からの教訓ではないでしょうか。つまり神様はここであえて「細い声」を通して語られることで、信仰というものは、そうした地道な神様との交わりに基礎を置くことだとエリヤに教えようとされていると思うのです。そこにこそ本当の霊的な活力があるのです。

あなたは疲れていませんか。もし疲れているなら、まずは美味しい物を食べて充分に休んでください。そしてその上で主の前に立ち、細き御声を聞いてください。そこで主はもう一度「行け、帰れ、あなたの道を(15)」と私たちをこの世に派遣してくださるのです。

「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
主は仰せられた。
「外に出て、山の上で主の前に立て。」
(Ⅰ列王記19章9,11節)

2008年1月31日木曜日

第18回「荒野での訓練」 出エジプト2:11-3:14

人生には「荒野での訓練」というものが存在する。「これからだ」というときに限って、肉体に弱さが与えられたり、精神的にダウンしてしまうときがある。ある者は、そのような状況に追い込まれるとき、自己憐憫の罠に飲み込まれ、本当にダメになってしまうだろう。しかし主に信頼するものは、そのような困難の中でも、腐らず、コツコツと訓練を積み重ねる。そしてその訓練によって培われた強靭な精神と信仰をもって、健康なときに成しえた仕事よりも、更に大きなことを成し遂げるようになる。今日はモーセを通して、そんな信仰者の姿を学びたい。

荒野に行くまでの彼は、宮廷で育ったエリートでした。当時最高の学問を学び、もちろん王子として、リーダーシップについても訓練を受けていたことでしょう。しかし出エジプトの大事業を果たすためには、まだまだ信仰においても人格においても足りないところが多々ありました。事実、彼が自らの正義感から立ち上がったとき同胞のヘブル人でさえ彼について行きませんでした。神様は彼の欠けた部分を補うため、彼を荒野へと導き、そこで40年間じっくり訓練されたのです。

彼はまず荒野で「孤独」を学びました。長男につけた名前に、その時の心境がにじみ出ています。その名はゲルショム「私は外国にいる寄留者だ」でした。誰にもちやほやされず、ひたすら荒野で羊を追う毎日、しかし彼はその中で、自分でも気付かないうちに大切な訓練を受けていました。それは「孤独の中で神様と一対一で向き合う訓練です」。リーダーと言うものは孤独なものです。しかしその中で神様と向き合い、答えを頂き、民を導いて行く責任がリーダーにはあるのです。

また彼は、主への「信頼」を学びました。主への信頼とは、たとえ絶望的な状況の中でも「神様は私達の祈り聞き、約束を覚え、いつも見ておられ、私たちを知っておられる」と信じつづけることです。彼はそういった神様に対する信頼を、劇的な何かによって培(つちか)ったのではなく、荒野において40年間、ただ毎日羊を追い続け、家族と暮らす中でゆっくり培っていったのです。燃える鉄は、ゆっくり冷まし、何度も何度も打つことによって、粘り強く、折れにくくなるのです。

また彼は、荒野で「謙遜」を学びました。エジプトにいたころの彼は、どちらかと言えば「俺が世の中を変えてやる」といったような、強引なところがありました。だから神の時を待たず、自分の熱心さだけで行動し、あっという間に躓いてしまったのです。その失敗により彼の自信は砕かれました。しかし彼はもっと大切なものを発見しました。神様は燃える柴の中からこう言われました「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」と。この一言によって、彼は神様の前で、おのれが何者かを知ったのです。

そうして彼は、神とともに歩む者と変えられました。燃える柴の中から、主はこうとも言われました。「わたしはあなたとともにいる。わたしは、『わたしはある。』という者である」と。自我を砕かれ、謙遜にせられることによって、この「ともにいてくださる主」の力強さを知ることが出来るのです。この「荒野での訓練」によって、モーセという人は「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった(民数記12章3節)」と呼ばれる、歴史上最も偉大なリーダーとなっていったのです。

皮肉なものです。40歳のという心身ともに充実していた時には挫折し、80歳という世間的に見れば引退を決め込むときに、主によって押し出されたのです。その人の願いや努力が、いつ、どのような形で花開くのかは分からないものです。◆大切なのは「荒野での訓練をどう過ごしたのか」なのです。腐ったらそれまでです。しかしその中でも主を信頼し、コツコツと、誠実に歩んできた者は、やがて時が来て、大きく主に用いられるのです。

「まことに主がこの所に(荒野にも)おられるのに、
私はそれを知らなかった。」
創世記28章16節

第17回「成し遂げる訓練」

古くから「何かを始めたら、それを最後までやり遂げなさい」という格言があります。しかしなぜ成し遂げなければならないのでしょう?また、どうしたら成し遂げることが出来るのでしょう?あなたはその問に答えることが出来ますか?以前にも「敢行の訓練」について学んだことがありますが、今回は、また別の視点から、光をあてて見たいと思います。今回のテーマは「成し遂げる訓練」です。

多くの人は、新しい事を始めることは大好きです。大きな夢と希望を抱いて、胸をワクワクさせながらそれに取り掛かります。時には食事をするのも忘れて、それに没頭します。しかし残念ながら、それを「成し遂げる力」に欠けています。何かの拍子に、急に熱が冷め、飽きてしまうのです。そればかりか、様々な言い訳を自分にします。「いやぁ、あれはやるだけの価値がなかったのですよ」など。

もっともらしい口実は、いくらでも手に入ります。ある人は目を輝かせて、熱心にこう言います。「今までとは違う、もっと大きくて、素晴らしいヴィジョンが与えられた」と。そして、既に手にかけていた仕事を放り出して、まったく新しい夢を追いかけようとするのです。しかし気を付けてください。それもは「もっともらしい理由をつけた逃避」ではないでしょうか?夢を語っているようで、ただ投げ出したい誘惑に負けて、中途半端に放り出しているだけなのはないでしょうか?

その結果、私たちが得るものはなんでしょうか?それは「何をしてもすぐに止めたくなる悪い癖」です。その人は常に新しいことを始めているのですが、実際は段々と低いところに落ちて行っているのです。そして同じ失敗を何度も繰り返すのです。当然です。何も成し遂げていないのですから次のステップに進めるわけがありません。しかし同じように表面上は成し遂げられなかったとしても、何かに真剣に取り組んだ人は、そこから尊い何かを学び取り少しずつ前進しているのです。

愚か者よ、蟻のところに行って学んできなさい。冬の間にせっせと耕し、刈り入れの時期を待ちなさい。明日がその時かもしれないのです。遠くの夢ばかりを見ているだけではなく、既に与えられている目の前の仕事をまず完成させなさい。そうすれば、その一歩先が見えてくるのです。そうした小さなことの積み重ねによって「忍耐力」が養われます。すると神様はそういった人に、もっと大きなことを任せてくれるのです。小さいことに不誠実な人には大きなことも任せられません。

しかしそれは単なる自己実現とは違います。人の意見に耳を傾けず、自分の確信(欲望)だけに固執するなら、あなたはいずれ誰からも相手にされなくなるでしょう。大切なのは「祈り」です。イエス様がゲッセマネで祈られたように「わたしの願いではなく、御心の通りに」との祈り(心の余白)が、私たちには必要です。自分の野望を成し遂げるのではなく、神様の御心を成し遂げることが大切なのです(ヨハネ4:34)。もしそれがズレているなら思い切った方向転換も必要になるでしょう。

「成し遂げる訓練」その最高の模範はイエス・キリストの生涯にあります。イエス様は「まことに神の子」でありながら「まことに人の子」でもあられました。当然、人としての「死に対する恐怖」や「そこから逃れたいという誘惑」もあったことでしょう。しかしイエス様は、そこから一歩も引かず、苦しみもだえ、血の汗を流すような祈りを通して、それら全てに勝利を取ってくださったのです。「完了した」との宣言は、血のしずくの結晶です。私達はこの地上で何を成し遂げたいと願っているでしょか?それは御心にかなっているでしょうか?崇高な目的のために生き、それを成し遂げられる人は何と幸いでしょうか!

神は、みこころのままに、
あなたがたの内に働いて志を立てさせ、
事を行なわせてくださるのです。
すべての事をつぶやかず、
疑わずに行ないなさい。
そうすれば自分の努力した事が無駄ではなく、
苦労した事も無駄でなかったことを、
キリストの日に誇ることができます。
(ピリピ2:13-16 要約)

2008年1月10日木曜日

第16回「死生観における訓練」(ピリピ1章27節-2章11節)

新年最初の聖書研究会です。ある人はまだ白紙の2008年というキャンバスを前にして、どんな絵を描こうかワクワクしながら、様々な抱負や計画を立てているかもしれません。でもちょっと待ってください。聖書には「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(ヤコブ4:15)」とあります。生きていることは当たり前ではなく、生かされているのです。今回のテーマは「死生観における訓練」です。

中世の修道士達は「メメント・モリ」と挨拶をしました。直訳すると「死を覚えよ」という意味ですが、そこには「今日も、命を与えてくださっている、主を覚えよ」との積極的なメッセージも込められています。人生の終わりを意識する時に、私達は「いま、与えられているいのちの大切さ」に目が開かれます。また、その命が偶然にではなく、神様によって与えられていることを覚える時に、「その神様の御心が何であるかを考えながら」、一日一日を大切に生きるようになるのです。

この世の死生観は全く違っています。多くの人は「死を他人事」のように考えているのではないでしょうか?そして限られた時間をダラダラと無駄に過ごしているのです。またある人々は間違った方法で死を意識しています。「どうせいつかは死ぬのだから、生きている間に、自分の好きなことをして、自分の力を試してみようじゃないか」と。そこに、いのちを与えてくださっている方への感謝も、その方の御心も求める求道心もなく、ひたすら「自分」を追求しているのです。

その結果、どれだけの人が本当に満足しているのでしょか?この世の与えてくれるものは「お金」にしろ「快楽」にしろ「名誉」にしろ、いつも一時的な満足しか与えてくれません。そして同じ満足を得るためには、よりたくさんの「お金」と「快楽」と「名誉」が必要となるのです。それを「快楽の中毒性」といいますが、人間の欲望というものは、どれだけ追求しても決して満足することはないのです。

パウロの生き方はまったく違っていました。彼は言いました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と。でも実際の彼は、このピリピ人への手紙を書いた時、獄中にいました(1:13)。また折角たて上げたピリピ教会は、後から入ってきた者によって乗っ取られてしまいました(1:17)。どこが「益」なのでしょうか?しかしそれでも彼は「キリストが述べ伝えられているのなら私は喜ぶし、今からも喜ぶことでしょう(1:18)」と告白しているのです。彼にとっての「益」とは、ただ「キリストのすばらしさが現れること(1:20)」だったのです。

私達は本当に「キリストのすばらしさ」を残そうとしているでしょうか?それとも「自分のすばらしさ」を残そうとしているでしょか?見せかけの善行や熱心さ、そういったものは、結局、自分の名を残そうとする「党派心」や「虚栄心」「欲望の追求」なのではないでしょうか?私達は、本当に心から「キリストのすばらしさが現わされること、それが私の切なる願いです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:20-21)」と告白できるでしょうか?

福音にふさわしい生活、それにはいろいろなことが言えるでしょう。聖い生活や、愛の実践、伝道のために一致奮闘する生活(1:27)など。しかし一言でいえば、キリストのように「自分を無にする生活」なのではないでしょうか。◇イエス様は、ご自分を無にして、家畜小屋に生まれ、十字架にかかってくださいました。これが最高の模範なのです。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2章6-8節)

2007年12月8日土曜日

第15回「絶望における訓練」(マタイ14章22-33節)

今回のテーマは「絶望における訓練」ですが、果たしてクリスチャンの生涯は、苦悩や危険、絶望や落胆と無縁でしょうか? いいえそんなことはありません。クリスチャンにも、失望や緊迫、過酷や拷問的な苦しみの瞬間があります。そして自分自身や、自分の愛する者が、生と死の天秤に乗せられることもあるのです。私たちには、それを自分の願う方向に傾ける力はありません。そのために何かをすることも、気を失うことも許されず、ただ神様に向かって祈るほかないのです。

その時、信仰を持たない人はなんと無力でしょうか。祈るべき方を知らないということは、何という孤独でしょうか?助けを求めるべきお方を知らないということは、なんという悲劇でしょうか?主の耳は、私達の叫びが聞こえないほど鈍くはありません。主の御手は、私たちを救えないほど短くはありません。このお方を知り、どんな時にも「主よ助けてください!」と祈ることの出来る人は幸いです。

ペテロはそんな信仰の持ち主でした。彼はただの「信仰の薄い人」ではありません。確かに彼のやり方は、性急で、彼らしく、危なっかしさを含んでいました。しかし彼は少しでもイエス様に近づきたくて、「来なさい」と言われれば、水の上を歩くという危険を冒してでも、イエス様に従いたいと思っていたのです。私達は往々にして、舟の中に黙って座っていた、11人のようではないでしょうか。理にかなったことだけを求め、決してイエス様のために冒険しようとしないのです。

しかしイエス様に従う者は、時に「人生の嵐」に遭遇するのです。聖書にもこのようにあります。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです(ピリピ1:29)」。この言葉に躓いてしまう人もあるかもしれません。怖くなって、自分の「舟」に引き返し、しがみついてしまう人もいるかもしれません。しかし主イエスを愛する者は、それでも自分の舟を降りて、未知の湖面に体重をかけ、一歩一歩進んでいくのです。

イエス様から目を離すときに、恐れが、私達の心を覆い尽くします。ペテロもそうでした。彼は「風を見て、こわくなり、水に沈みかけた」のです。私たちも同じです。困難や試練に会う時に、イエス様から目をそらし、この世の波風ばかりを見てしまう時に、「失望」「落胆」「絶望」という湖に沈んでいってしまうのです。そう考えると、極端な恐れは、やはり不信仰の結果だと言わざるをえません。イエス様に対する畏れがなくなるとき、私達は「人生の嵐」を恐れてしまうのです。

イエス様はそんなペテロの手をつかみこう言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と。それは決して一方的な叱責ではありませんでした。その証拠に、見上げると、そこにはペテロの手をしっかり握っておられる、慈愛に満ちたイエス様のまなざしがあったのです。私たちも同じです。人生の嵐の中でイエス様に「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」といわれてしまうかもしれません。しかしそんな時でも、イエス様の御手は、私達をしっかりと握って、離さないのです。

信仰とはなんでしょうか?それは、自分の力でイエス様の御手をしっかり握ることではありません。そうではなくて、たとえ絶望的な状況の中でも、私たちの手をしっかり握って離さないイエス様の御手を覚え、その愛に信頼し、この方を恐れ、イエス様から目をそらさないことなのです。その時私達の歩みは、試練の中でも決して揺るぐことがありません。

信仰の創始者であり、完成者である
イエスから目を離さないでいなさい。
(ヘブル12章2節)

それは、地のすべての民が、
主の御手の強いことを知り、
あなたがたがいつも、
あなたがたの神、主を恐れるためである。
(ヨシュア記4章24節)

第14回「孤独を通しての訓練」

今回のテーマは「孤独を通しての訓練」ですが、はたして私達は、孤独から何かを学ぶことが出来るのでしょうか?人には、孤独を愛する人や、孤独が苦手な人など、色々いますが、誰一人として「完全な孤独」の中で生きていける人はいません。人間は、読んで字のごとく「人々との間で生きていく存在」だからです。

ある人は、孤独を誤魔化すために、賑やかさを求めます。放蕩息子もそうだったのかもしれません。遠い国に旅立ち、家族や友とも切り離され、本当は孤独だったのかもしれません。だからこそ、その寂しさをまぎらわせるために、お金を湯水のように使い、宴(うたげ)の中に身を置き、自分自身を誤魔化していたのかもしれません。しかし金の切れ目が縁の切れ目、お金が無くなった途端に、友は離れて行き、置かれた現実(本当は孤独な自分)をまざまざと見せつけられたのです。

その時、彼は我に返り「本当の交わり」を求めはじめました。それは、自分のことを誰よりも愛してくれる、お父さんとの交わりでした。それまでは、その愛が自分にとって、それほど重要なことだとは感じていませんでしたし、むしろ「わずらわしい」とさえ感じていました。しかし孤独を通して、彼はその重要性に目を開かれ、父のもとに帰っていったのです。この父こそ「父なる神様」のことなのです。

私たちにも孤独は必要です。この世の賑やかさに心を奪われている間は、「神様との交わり」なんて、それほど重要だとは思えないかもしれません。多くの人は、神とか教会とか、何だか窮屈に感じるのもそのためです。しかしそんな人も、本当の孤独を経験する時に「わたしはあなたを愛している」と言ってくださるお方の存在に気付き始めるのです。そして我に返り、「アバ父(天の父)」のふところに帰っていき、そこで新しい兄弟姉妹の交わり(教会)を経験し始めるのです。

ボンヘッファーはこう言いました(「共に生きる生活」p71)。「この世の作り出す『賑やかさ』の正体とは、驚くべき孤独を作り出すところの陶酔(とうすい)状態である。それはしばらくの間、孤独を忘れさせてくれるかもしれないが、その陶酔状態から覚めれば、以前にも増した孤独が襲ってくる。そして、そのようなことを続けるなら、我々はやがて精神の死へと行き着くのである」と。この精神の死こそ、本当の交わり、つまり父なる神様と兄弟姉妹との、交わりの喪失なのです。

イエス様は、いつも「寂しい所」に退かれました。そして、自分をあえて孤独の中に置き、常に父なる神の細き御声に耳を傾け、一日を始めらました。そして、ただ寂しいところに閉じこもっていないで、多くの人々と触れ合われたのです。だからこそ、イエス様の言葉と行いには「不思議な力」がありました(マタ7:29)。

聖書には「黙っているのに時があり、話をするのに時がある(伝道3:7)」とあります。私たちには、この両方が必要なのです。主の前に黙ることをしない者は、いくら饒舌(じょうぜつ)に語り、おせっかいをやいても、それは、うるさいドラやシンバルのようなものです。しかし反対に、黙ってばかりいて、一人とじこもっていても何も始まりません。神様と兄弟姉妹は、あなたと語り合いたいと待っています。

あなたは主の前に静まっていますか?世的な賑やかさや、メールや長電話によって、本来感じるべき孤独を誤魔化していませんか?そしてますます孤独になっていませんか?◆まずは主の御前で孤独になること。その時、聞こえなかった心の叫びや、主の細きみ声が聞こえてきます。孤独を知るもの同士が集まるときに、真の交わりが生まれるのです。

キリストのことばを、
あなたがたのうちに豊かに住まわせ、
知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、
詩と賛美と霊の歌とにより、
感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
(コロサイ3章16節)