2008年1月31日木曜日

第17回「成し遂げる訓練」

古くから「何かを始めたら、それを最後までやり遂げなさい」という格言があります。しかしなぜ成し遂げなければならないのでしょう?また、どうしたら成し遂げることが出来るのでしょう?あなたはその問に答えることが出来ますか?以前にも「敢行の訓練」について学んだことがありますが、今回は、また別の視点から、光をあてて見たいと思います。今回のテーマは「成し遂げる訓練」です。

多くの人は、新しい事を始めることは大好きです。大きな夢と希望を抱いて、胸をワクワクさせながらそれに取り掛かります。時には食事をするのも忘れて、それに没頭します。しかし残念ながら、それを「成し遂げる力」に欠けています。何かの拍子に、急に熱が冷め、飽きてしまうのです。そればかりか、様々な言い訳を自分にします。「いやぁ、あれはやるだけの価値がなかったのですよ」など。

もっともらしい口実は、いくらでも手に入ります。ある人は目を輝かせて、熱心にこう言います。「今までとは違う、もっと大きくて、素晴らしいヴィジョンが与えられた」と。そして、既に手にかけていた仕事を放り出して、まったく新しい夢を追いかけようとするのです。しかし気を付けてください。それもは「もっともらしい理由をつけた逃避」ではないでしょうか?夢を語っているようで、ただ投げ出したい誘惑に負けて、中途半端に放り出しているだけなのはないでしょうか?

その結果、私たちが得るものはなんでしょうか?それは「何をしてもすぐに止めたくなる悪い癖」です。その人は常に新しいことを始めているのですが、実際は段々と低いところに落ちて行っているのです。そして同じ失敗を何度も繰り返すのです。当然です。何も成し遂げていないのですから次のステップに進めるわけがありません。しかし同じように表面上は成し遂げられなかったとしても、何かに真剣に取り組んだ人は、そこから尊い何かを学び取り少しずつ前進しているのです。

愚か者よ、蟻のところに行って学んできなさい。冬の間にせっせと耕し、刈り入れの時期を待ちなさい。明日がその時かもしれないのです。遠くの夢ばかりを見ているだけではなく、既に与えられている目の前の仕事をまず完成させなさい。そうすれば、その一歩先が見えてくるのです。そうした小さなことの積み重ねによって「忍耐力」が養われます。すると神様はそういった人に、もっと大きなことを任せてくれるのです。小さいことに不誠実な人には大きなことも任せられません。

しかしそれは単なる自己実現とは違います。人の意見に耳を傾けず、自分の確信(欲望)だけに固執するなら、あなたはいずれ誰からも相手にされなくなるでしょう。大切なのは「祈り」です。イエス様がゲッセマネで祈られたように「わたしの願いではなく、御心の通りに」との祈り(心の余白)が、私たちには必要です。自分の野望を成し遂げるのではなく、神様の御心を成し遂げることが大切なのです(ヨハネ4:34)。もしそれがズレているなら思い切った方向転換も必要になるでしょう。

「成し遂げる訓練」その最高の模範はイエス・キリストの生涯にあります。イエス様は「まことに神の子」でありながら「まことに人の子」でもあられました。当然、人としての「死に対する恐怖」や「そこから逃れたいという誘惑」もあったことでしょう。しかしイエス様は、そこから一歩も引かず、苦しみもだえ、血の汗を流すような祈りを通して、それら全てに勝利を取ってくださったのです。「完了した」との宣言は、血のしずくの結晶です。私達はこの地上で何を成し遂げたいと願っているでしょか?それは御心にかなっているでしょうか?崇高な目的のために生き、それを成し遂げられる人は何と幸いでしょうか!

神は、みこころのままに、
あなたがたの内に働いて志を立てさせ、
事を行なわせてくださるのです。
すべての事をつぶやかず、
疑わずに行ないなさい。
そうすれば自分の努力した事が無駄ではなく、
苦労した事も無駄でなかったことを、
キリストの日に誇ることができます。
(ピリピ2:13-16 要約)

2008年1月10日木曜日

第16回「死生観における訓練」(ピリピ1章27節-2章11節)

新年最初の聖書研究会です。ある人はまだ白紙の2008年というキャンバスを前にして、どんな絵を描こうかワクワクしながら、様々な抱負や計画を立てているかもしれません。でもちょっと待ってください。聖書には「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(ヤコブ4:15)」とあります。生きていることは当たり前ではなく、生かされているのです。今回のテーマは「死生観における訓練」です。

中世の修道士達は「メメント・モリ」と挨拶をしました。直訳すると「死を覚えよ」という意味ですが、そこには「今日も、命を与えてくださっている、主を覚えよ」との積極的なメッセージも込められています。人生の終わりを意識する時に、私達は「いま、与えられているいのちの大切さ」に目が開かれます。また、その命が偶然にではなく、神様によって与えられていることを覚える時に、「その神様の御心が何であるかを考えながら」、一日一日を大切に生きるようになるのです。

この世の死生観は全く違っています。多くの人は「死を他人事」のように考えているのではないでしょうか?そして限られた時間をダラダラと無駄に過ごしているのです。またある人々は間違った方法で死を意識しています。「どうせいつかは死ぬのだから、生きている間に、自分の好きなことをして、自分の力を試してみようじゃないか」と。そこに、いのちを与えてくださっている方への感謝も、その方の御心も求める求道心もなく、ひたすら「自分」を追求しているのです。

その結果、どれだけの人が本当に満足しているのでしょか?この世の与えてくれるものは「お金」にしろ「快楽」にしろ「名誉」にしろ、いつも一時的な満足しか与えてくれません。そして同じ満足を得るためには、よりたくさんの「お金」と「快楽」と「名誉」が必要となるのです。それを「快楽の中毒性」といいますが、人間の欲望というものは、どれだけ追求しても決して満足することはないのです。

パウロの生き方はまったく違っていました。彼は言いました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と。でも実際の彼は、このピリピ人への手紙を書いた時、獄中にいました(1:13)。また折角たて上げたピリピ教会は、後から入ってきた者によって乗っ取られてしまいました(1:17)。どこが「益」なのでしょうか?しかしそれでも彼は「キリストが述べ伝えられているのなら私は喜ぶし、今からも喜ぶことでしょう(1:18)」と告白しているのです。彼にとっての「益」とは、ただ「キリストのすばらしさが現れること(1:20)」だったのです。

私達は本当に「キリストのすばらしさ」を残そうとしているでしょうか?それとも「自分のすばらしさ」を残そうとしているでしょか?見せかけの善行や熱心さ、そういったものは、結局、自分の名を残そうとする「党派心」や「虚栄心」「欲望の追求」なのではないでしょうか?私達は、本当に心から「キリストのすばらしさが現わされること、それが私の切なる願いです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:20-21)」と告白できるでしょうか?

福音にふさわしい生活、それにはいろいろなことが言えるでしょう。聖い生活や、愛の実践、伝道のために一致奮闘する生活(1:27)など。しかし一言でいえば、キリストのように「自分を無にする生活」なのではないでしょうか。◇イエス様は、ご自分を無にして、家畜小屋に生まれ、十字架にかかってくださいました。これが最高の模範なのです。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2章6-8節)

2007年12月8日土曜日

第15回「絶望における訓練」(マタイ14章22-33節)

今回のテーマは「絶望における訓練」ですが、果たしてクリスチャンの生涯は、苦悩や危険、絶望や落胆と無縁でしょうか? いいえそんなことはありません。クリスチャンにも、失望や緊迫、過酷や拷問的な苦しみの瞬間があります。そして自分自身や、自分の愛する者が、生と死の天秤に乗せられることもあるのです。私たちには、それを自分の願う方向に傾ける力はありません。そのために何かをすることも、気を失うことも許されず、ただ神様に向かって祈るほかないのです。

その時、信仰を持たない人はなんと無力でしょうか。祈るべき方を知らないということは、何という孤独でしょうか?助けを求めるべきお方を知らないということは、なんという悲劇でしょうか?主の耳は、私達の叫びが聞こえないほど鈍くはありません。主の御手は、私たちを救えないほど短くはありません。このお方を知り、どんな時にも「主よ助けてください!」と祈ることの出来る人は幸いです。

ペテロはそんな信仰の持ち主でした。彼はただの「信仰の薄い人」ではありません。確かに彼のやり方は、性急で、彼らしく、危なっかしさを含んでいました。しかし彼は少しでもイエス様に近づきたくて、「来なさい」と言われれば、水の上を歩くという危険を冒してでも、イエス様に従いたいと思っていたのです。私達は往々にして、舟の中に黙って座っていた、11人のようではないでしょうか。理にかなったことだけを求め、決してイエス様のために冒険しようとしないのです。

しかしイエス様に従う者は、時に「人生の嵐」に遭遇するのです。聖書にもこのようにあります。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです(ピリピ1:29)」。この言葉に躓いてしまう人もあるかもしれません。怖くなって、自分の「舟」に引き返し、しがみついてしまう人もいるかもしれません。しかし主イエスを愛する者は、それでも自分の舟を降りて、未知の湖面に体重をかけ、一歩一歩進んでいくのです。

イエス様から目を離すときに、恐れが、私達の心を覆い尽くします。ペテロもそうでした。彼は「風を見て、こわくなり、水に沈みかけた」のです。私たちも同じです。困難や試練に会う時に、イエス様から目をそらし、この世の波風ばかりを見てしまう時に、「失望」「落胆」「絶望」という湖に沈んでいってしまうのです。そう考えると、極端な恐れは、やはり不信仰の結果だと言わざるをえません。イエス様に対する畏れがなくなるとき、私達は「人生の嵐」を恐れてしまうのです。

イエス様はそんなペテロの手をつかみこう言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と。それは決して一方的な叱責ではありませんでした。その証拠に、見上げると、そこにはペテロの手をしっかり握っておられる、慈愛に満ちたイエス様のまなざしがあったのです。私たちも同じです。人生の嵐の中でイエス様に「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」といわれてしまうかもしれません。しかしそんな時でも、イエス様の御手は、私達をしっかりと握って、離さないのです。

信仰とはなんでしょうか?それは、自分の力でイエス様の御手をしっかり握ることではありません。そうではなくて、たとえ絶望的な状況の中でも、私たちの手をしっかり握って離さないイエス様の御手を覚え、その愛に信頼し、この方を恐れ、イエス様から目をそらさないことなのです。その時私達の歩みは、試練の中でも決して揺るぐことがありません。

信仰の創始者であり、完成者である
イエスから目を離さないでいなさい。
(ヘブル12章2節)

それは、地のすべての民が、
主の御手の強いことを知り、
あなたがたがいつも、
あなたがたの神、主を恐れるためである。
(ヨシュア記4章24節)

第14回「孤独を通しての訓練」

今回のテーマは「孤独を通しての訓練」ですが、はたして私達は、孤独から何かを学ぶことが出来るのでしょうか?人には、孤独を愛する人や、孤独が苦手な人など、色々いますが、誰一人として「完全な孤独」の中で生きていける人はいません。人間は、読んで字のごとく「人々との間で生きていく存在」だからです。

ある人は、孤独を誤魔化すために、賑やかさを求めます。放蕩息子もそうだったのかもしれません。遠い国に旅立ち、家族や友とも切り離され、本当は孤独だったのかもしれません。だからこそ、その寂しさをまぎらわせるために、お金を湯水のように使い、宴(うたげ)の中に身を置き、自分自身を誤魔化していたのかもしれません。しかし金の切れ目が縁の切れ目、お金が無くなった途端に、友は離れて行き、置かれた現実(本当は孤独な自分)をまざまざと見せつけられたのです。

その時、彼は我に返り「本当の交わり」を求めはじめました。それは、自分のことを誰よりも愛してくれる、お父さんとの交わりでした。それまでは、その愛が自分にとって、それほど重要なことだとは感じていませんでしたし、むしろ「わずらわしい」とさえ感じていました。しかし孤独を通して、彼はその重要性に目を開かれ、父のもとに帰っていったのです。この父こそ「父なる神様」のことなのです。

私たちにも孤独は必要です。この世の賑やかさに心を奪われている間は、「神様との交わり」なんて、それほど重要だとは思えないかもしれません。多くの人は、神とか教会とか、何だか窮屈に感じるのもそのためです。しかしそんな人も、本当の孤独を経験する時に「わたしはあなたを愛している」と言ってくださるお方の存在に気付き始めるのです。そして我に返り、「アバ父(天の父)」のふところに帰っていき、そこで新しい兄弟姉妹の交わり(教会)を経験し始めるのです。

ボンヘッファーはこう言いました(「共に生きる生活」p71)。「この世の作り出す『賑やかさ』の正体とは、驚くべき孤独を作り出すところの陶酔(とうすい)状態である。それはしばらくの間、孤独を忘れさせてくれるかもしれないが、その陶酔状態から覚めれば、以前にも増した孤独が襲ってくる。そして、そのようなことを続けるなら、我々はやがて精神の死へと行き着くのである」と。この精神の死こそ、本当の交わり、つまり父なる神様と兄弟姉妹との、交わりの喪失なのです。

イエス様は、いつも「寂しい所」に退かれました。そして、自分をあえて孤独の中に置き、常に父なる神の細き御声に耳を傾け、一日を始めらました。そして、ただ寂しいところに閉じこもっていないで、多くの人々と触れ合われたのです。だからこそ、イエス様の言葉と行いには「不思議な力」がありました(マタ7:29)。

聖書には「黙っているのに時があり、話をするのに時がある(伝道3:7)」とあります。私たちには、この両方が必要なのです。主の前に黙ることをしない者は、いくら饒舌(じょうぜつ)に語り、おせっかいをやいても、それは、うるさいドラやシンバルのようなものです。しかし反対に、黙ってばかりいて、一人とじこもっていても何も始まりません。神様と兄弟姉妹は、あなたと語り合いたいと待っています。

あなたは主の前に静まっていますか?世的な賑やかさや、メールや長電話によって、本来感じるべき孤独を誤魔化していませんか?そしてますます孤独になっていませんか?◆まずは主の御前で孤独になること。その時、聞こえなかった心の叫びや、主の細きみ声が聞こえてきます。孤独を知るもの同士が集まるときに、真の交わりが生まれるのです。

キリストのことばを、
あなたがたのうちに豊かに住まわせ、
知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、
詩と賛美と霊の歌とにより、
感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
(コロサイ3章16節)

2007年11月22日木曜日

第13回「欲望に対する訓練」

今回のテーマは「欲望に対する訓練」ですが、この世には、様々な欲望が渦巻いているのではないでしょうか?以前もお話しましたが、私が牧師になる時、ある老齢の牧師がこのようなアドヴァイスを下さいました。「川村さん、あなたが牧師になったら、私も気をつけていることですが、特に三つの『欲』に気をつけなさい。それは「金銭」「名誉」「性欲」ですよ」と。驚いてしまいました。なぜならその先生はとても聖く、そのような欲望とは無関係のように思えたからです。

私達は誰もがこの『欲望』とは無関係ではありません。自分の心を「映写機で移しても平気」と言える人がどれくらいいるでしょうか?私達の心の中には「欲望」が、台風のごとく渦巻いているのです。聖書の中には「肉の欲」のリストとして「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」などが上げられていますが、はっきり言って、そのような者が、そのままで「神の御国に入ることはない(ガラ5:19-21)」のです。

また聖書には「世を愛してはなりません(Ⅰヨハ2:15)」とも書いてあります。でもおかしくはないでしょうか?ヨハネ3章16節には「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあるではありませんか。しかし同じ「世を愛する」という言葉でも、その意味するところは全然違うのです。神様がこの世を愛される場合、罪にまみれた世界を、悲しみをもって愛しておられるのですが、私たちの場合はそういった悲しみなどなく、この世を「溺愛」してしまうのです。

ジョンウェスレーはこう言いました(p136)。「何でも、キリストに対する私達の愛を冷やしてしまうものが『世』である」と。つまり、あまりにも熱中しすぎて、イエス様を忘れさせてしまうもの、そして霊的な飢え渇きをマヒさせてしまうもの、それが私達にとっての「世」なのです。「読書」「スポーツ」「趣味」など本来は健全なものでも「世」となってしまいます。ふと気づくとそのことばかりを考えていて、聖書の話が心に響かなくなったら黄信号です。あなたは大丈夫ですか?

もし欲望の罠にはまってしまったら、どうしたらよいのでしょう?答えは「逃げなさい!」です。聖書には「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい(Ⅰペテ2:11)」「悪はどんな悪でも避けなさい(Ⅰテサ5:22)」とあります。逃げるなんて臆病だと思いますか?そうではありません。自分の「弱さ」を認め、逃げることの方が勇気のいることなのです。また、誘惑する人にも近づいてはいけません。聖書にはこうあります。「彼らの仲間になってはいけません(エペソ5:7)」と!

その上で、人をも誘惑してはいけません。あなたにとっては平気なことであっても、他の人には誘惑となることだってあります。あなたにとっては、お酒を飲むことが平気なことであっても、それを勧める事によって、相手が深刻な影響を受けてしまうことだってあるのです。また同じ理由で、女性は肌の露出をしすぎないよう服装に気をつけるべきでしょう。クリスチャンは、律法主義ではなくて、弱い人への配慮から、自分の権利を控えるべきなのです。聖書にはこうあります。「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです(ルカ17:2)」と。

もしもあなたの心が欲望に負けそうになったら、早めに、それを明るみに出しなさい。それを神様の御前に告白し、信頼できるクリスチャンに何度も何度も祈ってもらいなさい。◆もし失敗してしまっても、それを何度も繰り返しなさい。一度誘惑に負けた人は、人一倍誘惑も強く感じるものです。一人で暗闇を歩み続けるより、光の子らと共に歩むのです!

こうしてあなたがたは、地上の残された時を、
もはや人間の欲望のためではなく、
神のみこころのために過ごすようになるのです。(Ⅰペテロ4:2)

第12回「悪意に対する訓練」

今回のテーマは「悪意に対する訓練」ですが、そのことをダビデの生涯を通し学びたいと思います。少年ダビデは一介の羊飼いでした。その彼が、サウル存命中に、王としての油注ぎを受けるのですが、そのことはしばらく公表されず、彼は、サウルのお抱えの琴奏者として王宮に出入りしていたのです。ですがゴリアテの一件があり、ダビデの人気は国中に一気に高まり、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と騒ぎ立てられます。それは大いに、サウルの機嫌を損ねました。

そして、その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになったのです。この「疑いの目」とは、新共同訳聖書で「ねたみの目」とも訳されていますが、サウルは、王である自分より尊敬と人気を勝ち取ったダビデに、激しい嫉妬を抱いたのでした。Ⅰテモテ6章4節には「疑いをかける病」があるといいます。そして、いったんこの病にかかってしまうと「そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、絶え間のない紛争が生じる(同5節)」のです。嫉妬の病は実に恐ろしい!

エドマン博士は、この「ねたみ」について、こう指摘します。「ねたみというものは、どんな場合でも、残酷なものである。ねたみのゆえにアベルはカインに殺され、ヨセフは兄達の手によって奴隷として売られ、キリストは十字架に付けられた。ダビデも、このねたみのために苦しめられた。彼は従順で、謙遜で、慎み深い一平卒にしすぎなかったのに、王のひがみ根性のゆえに命を狙われた(p130~)」と。しかしそれでもギリギリのところまで逃げ出さず、最後の最後まで王のために琴を弾き続けたのです。一体ダビデはどんな気持ちで琴を奏で続けたのでしょう…。

私達はどうでしょう。ダビデの様に、人からの悪意にさらされても、その悪意に毒されず、振り回されず、逃げ出さず、自分を保ち続けることが出来るでしょうか?その只中にあっても、その悪意を持つ人に仕え続け、最後まで、誠実を貫き通すことが出来るでしょうか?ダビデは、その「訓練」に勝利を収めることが出来ました。だからこそ神様は、ダビデに多くのもの(賜物、奉仕)を任せたのでしょう!

ある人は言うかも知れません。「いやぁダビデは、サウルが、主に油を注がれた方だったから、手を下せなかっただけさ(24:6)」と。確かにそういう面もあります。しかし言い訳は許されません。新約聖書には、はっきりこう勧められているからです。Ⅰテサロニケ5章15節「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい」と。

それを本気で実行しようとする時、私達の主に対する「信頼」が試されます。主に信頼していないと、どうしても自分の判断で逃げ出したくなる。また、自分に力があれば、どうしても何倍にもして復讐したくなる。しかしローマ12章19節にはこうあります。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをすると主は言われる』」と。悪意に悪意で答えては絶対にいけません!

つまり「悪意に対する訓練」とは、この「主に信頼する訓練」でもあるのです。ただ悪意に対して我慢するだけではない、主に信頼し、相手の祝福のために祈るのです。それができて、初めて「悪意に対する訓練」に合格することができるのです。◆もし私たちが、この訓練を真正面から乗り越えるなら、日々襲いくる困難にもめげず、悪意にも押しつぶされず、多くを任されるクリスチャンになるのです!

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、
かえって祝福を与えなさい。
あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
(Ⅰペテロ3:9)

第11回「喜びについての訓練」

今回のテーマは「喜びについての訓練」ですが、ある人はこのテーマを聞いて奇妙に思うかもしれません。「喜び」と「訓練」は、矛盾する、二つの事柄だと思っているからです。しかしこの二つは、少しも矛盾しません。喜ぶべきことをしっかり「喜び」、それを「いつも」しているためには「訓練」が必要なのです。

世間一般で言うところの「喜び」とは、非常に感覚的なものです。普通、人は良いことがあれば喜び、不幸な出来事があれば悲しむのです。確かにそれも間違いではありません。伝道者の書にも「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ(7:14)」とあります。しかしそれだけでは「いつも喜んでいる(Ⅰテサ5:26)」ことは出来ません。聖書が言うところの「喜び」にはもっと別の意味があるのです。それはどういう意味なのでしょうか?「~ではない」という形で説明してみましょう

聖書でいうところの「喜び」は、この地上における満足だけを意味しているのではありません。伝道者の書の著者であるソロモンは、人類史上もっとも栄華を極めた人物の一人でした(マタ6:29)。その彼が人生を振り返り残した言葉が「空の空すべては空(1:2)」「何とむなしいことか。それがいったい何になろう(2:1-2)」だったのです。神様は人に「永遠への思い(3:11)」を与えられたので、本来その「思い」が満たされない限り、深い「満足」と本当の「喜び」は経験できないはずなのです。しかしその健全な「むなしさ感」さえ麻痺してしまうこともあります。

イエス様のたとえ話における「金持ち」がそうでした。彼は言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ(ルカ15:19)」と。彼は二つの点で愚かでした。一つは、この世の物質だけで満足してしまい、その快楽に魂まで売ってしまったことです。お金で買えないものはないと考える人も同じです。そしてもう一つは、自分だけを喜ばせようとしていた点です。彼の「喜び」は、どこまでも俗物的で、自己中心的でした。

ある人は「私は違う」と言わんばかりに、「私はもっと精神的な満足を求めています」と言うかもしれません。確かに私達は、誰かを愛し、誰かから愛され、誰かのために生きる時、物質的な満足なんかより、もっと深い喜びを経験します。しかしその「喜び」でさえも完全ではありません。愛しても愛されないとき。尽くしても感謝をされないとき。そして、大切な人を失ってしまうとき。それでも私たちは「いつも喜んでいる」ことが出来るでしょうか?内面からの喜びは一時的です。

聖書は私たちに、無理な要求を突きつけているのでしょうか。いいえ違います。 そもそも聖書が言っている喜びとは、内からこみ上げる「感情的な喜び」ではなく、信仰の結果としての「意志的な喜び」なのです。この世にあっては試練に会うこともあります。愛する人を失ってしまうこともあります。期待が裏切られることもあります。その時は心が痛んで当然ですし、とても喜べません。納得できませんし、受け入れたくありません!しかしそれでも「神様の永遠という時の中」では、すべてが繋がっていることを信じるのです。天の御国においては、すべてが明らかにされることを信じるのです。感じなくても信じるのが、本当の喜びです。

それを「感謝の先取り」といいます。御国において味わう「喜び」を、この地上において、信仰によって味わうのです。この希望があなたを失望させることはありません。それを信じ、こおどりしたってよいのです!◆感情を無視しなさいということではありません。感情も大切です。しかしクリスチャンには、たとえ涙があっても、深い喜びがあるのです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、
いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた
喜びにおどっています。この(喜び)は、信仰の結果である!(Ⅰペテロ1:8-9)