2008年8月1日金曜日

第31回「陰謀を通しての訓練」 使徒23章1-24節

いよいよ「人生の訓練シリーズ」も最終回となりました。最終回のテーマは「陰謀を通しての訓練」です。陰謀と言うと少し大げさかもしれませんが、小さな悪意にさらされてしまうことは誰にでもあることでしょう?しかも悪意ある人々が裁かれず、「悠々と暮らしている」のを見ると、思わず「どうして?」と思ってしまいます。そんな時、私達は、どんな訓練を通らされているのでしょう?

パウロには、もともと一つの「切なる願い」がありました。それは「何とかして、道が開かれて、あなた方のところに行けること」でした。彼はローマに行き、そこにいる兄弟姉妹(クリスチャン)を励まし、強め、自分自身も励ましを受け、ローマにいるより多くの人々に「福音を伝えたかった」のです(ロマ1:9-15)。それはどれもこれも全て良い動機でした。でもなぜか、その道は、妨げられてたのです。

どうしてパウロの願いは妨げられていたのでしょう?私達は「良い動機で願えば、主はかなえてくださり、そうでなければかなえられない」と単純に考えます。確かに聖書には「願っても受けられないのは、悪い動機で願うからです(ヤコ4:3)」と書かれています。でも実際はもっと複雑なのではないでしょうか?というのは、正しい動機で願っても、激しい陰謀にさらされされたり、妨げられてしまうことはあるし、逆に、悪意ある陰謀が、良い結果を生み出すことだってあるのです。

創世記のヨセフを思い出してください。彼は、兄弟によって外国の隊商に売られてしまいました。でも結果的にその陰謀を通して、彼はエジプトの大臣となり、ヤコブの子孫(イスラエル)を救ったのです。後にヨセフは言いました。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして多くの人々を生かしておくためでした(創世50:20)」と。

パウロにも似たようなことが起こりました。彼はユダヤ人の悪意によって捕えられ、不正な裁判にかけられ、囚人とされてしまいました。そしてそれ以降も、パウロは様々な悪意と策略に翻弄されますが、不思議なことに、陰謀が激しくなればなるほど、パウロは確実にローマへと導かれていくのでした。言い方を変えれば、福音は、陰謀を通して、ローマへと運ばれ、世界へと広がって行ったのです。

つまりどういうことでしょうか?それは「神様のご計画は、人の悪意を超えて、前進している」「神様は悪意でさえも、ご自身のご計画のための用いることができる」ということです。一時的に「悪者は悠々と暮らしている」様に見えるかもしれません。しかし、そんな中にあっても、主のご計画は着実に進行しているのです。

また神様は、陰謀を通して、私達を訓練されます。陰謀の中で私達は必死に祈る様になります。そして悩みの炉で練り聖められ、謙遜にされ、自分の願いがかなえられても、決して「自分の力でそれをやった」とは言わず、主に栄光を帰するようになります。エルサレムで「勇気を出しなさい、あなたはローマでも」と言われた時のパウロも、自分の無力を痛感し、徹底的に砕かれていた時でした。反対に言えば、砕かれたその時こそが、ローマ行きへの本当の「時」だったのです。

人の悪意や陰謀は放っておきなさい。神様は泥水からも綺麗な花を咲かせることのできるお方です。あなたが自分を見失わなければ、全ては益へと変えられるのです。◆あなたはただ謙遜に、勇気を失わず、神と人とを愛し続けなさい。そしてあなたの主であるイエス・キリストを、どこにおいても立派に証し続けなさい。

神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
ローマ8章28節

2008年6月22日日曜日

第30回「わきまえる訓練」 民数記16章1-35節

今日のテーマは「わきまえ」です。「わきまえ」の意味を辞書で引くと「自分の置かれた立場から言って、すべき事とすべきでない事とのけじめを心得ること」と説明されています。ダビデは詩篇の中で、「わきまえのない状態」のことを「獣のよう」と表現しています。そう考えると「わきまえる訓練」とは、クリスチャンとして以前に、「人として」大切な訓練であることであることが分かります。

コラをはじめとする、民の代表250人は、この「わきまえ」を失ってしまいました。彼らは「モーセとアロンは分を超えている」とか「私達の上に君臨し、私たちを支配しようとしている」とか、色々と難癖をつけて、本来たくことを許されていない「香」を、自分達の手でたこうとしたのです。「モーセとアロンばかりが特権階級にいるのはおかしい」「本来平等のはずじゃないか」と言うわけです。そうして結局「すべきことと、すべきでないことのケジメを」失ってしまったのです。

その根本にあったのは「ねたみ」でした。もっともらしい理由を並べつつも、つまりは、モーセとアロンの「立場」が羨ましくてしょうがなかったのです。そして「自分にだって出来る」「なぜダメなんだ」と不満に思ったのです。これは十戒の「むさぼり」の罪です。モーセはそのことを見抜き「あなた方には既に大切な役割が与えられているのに、何が不足なのですか?祭司の職まで要求するのですか」と言いました。しかし彼らは悔い改めず、その身にさばきを招いてしまったのです。

似たような議論は今日も存在します。「牧師だけが特権階級にいるのはおかしい」「牧師は、我々の上に君臨して私たちを支配しようとしている」「説教も聖餐式の司式も、もっと信徒に任せるべきだ」と。そうして「行き過ぎた万人祭司」を唱えるのです。しかし聖書は、そんなことを教えてはいません。あくまで主の前における「存在としての平等」を教えつつも、「賜物」と「召命」における「違い」は尊重し、従うべき人には従いなさいと(Ⅰペテ2:13,5:5)教えているのです。

激しい批判にさらされた時モーセの態度は立派でした。彼は自分を吊るし上げる人々の前で「ひれ伏し(4)」怒ってもその感情をぶちまけず、まず「主に申し上げ(15)」、決して威張らず、ひねくれず、危険も顧みず必死に「とりなして(22,45)」いるのです。彼こそ本当の意味で「わきまえのある人」ではないでしょうか?

つまり「わきまえる」とはどういうことでしょう。一言でいえば「思うべき限度を越えて思い上がらない」ことです。それは「神様の御前で」です。「神様を恐れることこそ知識のはじまり(箴1:7)」です。それが出来ず自分の欲望のままに生きる人を「獣」と呼ぶのです。また「人に対して」もです。何にでも口を挟もうとするのではなく、謙遜に「人を自分よりまさっていると思う」のです。そういった自覚が、わきまえのある信仰者と、落ちついた教会・社会生活を生み出すのです。

あなたはいつの間にか「獣」になっていませんか?気付かないうちに、神の前にも、人の前にも「自分」が出すぎて、わきまえのない人になっていませんか?◆かといって「引っ込むこと」が「わきまえること」でもありません。自分に与えらた賜物に感謝し、その賜物に忠実に生きることが「わきまえの訓練」なのです。

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、
主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
詩篇19篇7節

兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、
尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
ローマ12章10節

第29回「疑いについての訓練」 マタイ11章1-6節

今日のテーマは「疑い」です。一口に「疑い」といっても、それは二つに分類できます。一つは、良く知りもせず、求めもしない人が、頭ごなしに決め付けるところの疑いです。でもそれは本当の「疑い」ではありません。信じたこともない人に、どうして「疑う」ことが出来るでしょうか?それはむしろ「先入観」や「偏見」と言ったほうが適切だと思います。今日学びたいのは、もう一つの「疑い」です。それは本気で信じ、求めた人とのみが感じるところの「疑い」です。言い換えれば「神に対する真摯な問い」とも言うことができるのではないでしょうか。

イエス様は十字架上でこう祈られました。「わが神、わが神、どうしたわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)」と。ある人は誤解し「イエスは『神の子』ではなかったから最期に神を疑ったんだ」と言います。しかしそれは間違いです。イエス様は父なる神様と太い絆で結ばれ、「ひとつ」であったからこそ、十字架上で私たちの罪を背負い、父との断絶を味わった時、初めてこのように「真摯に問うた」のです。根底にあったのは「不信仰」ではなく「揺るがない愛」でした。

しかしトマスの場合は違っていました。彼は「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません(ヨハネ20:25)」と言いました。これは明らかに、彼の不信仰から生まれた疑いでした。ですからイエス様も、彼にははっきり「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ずに信じる者は幸いです(27-29)」と言われたのです。

バプテスマのヨハネの感じた「疑い」はどちらだったのでしょう?彼は弟子を通じてこう訊ねました。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも別の方を待つべきでしょうか(3)」。ある人は長い幽閉生活の中で、ヨハネは不信仰に陥ったと言います。でもそんな簡単な言葉では片付けられません。彼は「キリストこそ『世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)』です」との確信を持ち続けていました。だからこそ「いつそれが明らかになるのですか」と「真摯に問うて」いたのです。

彼の問にイエス様は何と答えたでしょうか。イエス様はただ一言だけこう答えられました。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい(4)」と。それで十分だったのです。なぜなら「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、…死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられている」その有様は、イザヤが預言した通りだったからです(35:5-6)。

イエス様は、ヨハネに「確信を捨てず、御言葉に留まり続けなさい」とのサインを送られたのです。そしてヨハネはそれをキャッチし、信仰に留まり続けたのです。脅されても「死に至るまで忠実(黙示2:10)」でした。ある人はヨハネの悲惨な最期を見て「犬死だった」と評するかもしれません。しかしイエス様のために「道をまっすぐに整える(マルコ1:2)」使命に徹した彼の人生は、最高に幸せだったのではないでしょか?彼は天において間違いなく「いのちの冠」をいただいているのです(11~)!

あなたは疑いを感じていますか?だとすれば、その「疑い」は何を見ても何を聞いても解決されることはないでしょう。結局心を裸にし真摯に神様に問いかけ、御言葉に留まり続けるしかないのです。そうすることによって私達はジメジメした疑いの沼から救われるのです。疑いは更なる疑いしか生みません。しかし信仰は勇気と希望を生み出すのです!

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
(ヘブル10章35-36節)

第28回「権力に対する訓練」 マタイ20章17-28節

「ロード・オブ・ザ・リング」という映画を知っているだろうか?一つの指輪を巡る話なのだが、その指輪を手に入れた者は、世界を支配できる「力」を手に入れることができるのである。しかしその指輪を手に入れたのは、そんな野望とは全く関係のない、純真無垢な一人の少年(フロド)であった。でも彼は、その指輪を手に入れた瞬間から、だんだんと心を蝕まれ、芽生える野心と正義感の間で、深い葛藤を味わうことになる。私はその指輪と「権力」が非常に似ていると思う。

あなたは「権力」など要らないと考えるでしょうか?もしそうなら、まだまだあなたは自分のことを(いや人間そのものを)知らな過ぎる。「出るくいは打たれる日本」ではそういう声も多いかもしれませんが「権力への渇望」は私たちが思う以上に根深いものです。求めていないようで、喉から手が出るほど求めており、いざその権力を手にすると、どんな小さな権力でも、私達はバランスを失ってしまう。

その点、ヤコブとヨハネ、彼らの母は正直すぎました。お母さんは「御国で、息子のひとりが右、もうひとりが左に座る」ことを願いました。つまり「天国での№1と№2」を願ったのです。しかし彼らは自分達が何を求めているのか分かっていませんでした。彼らはイエス様が言われた「人の子がその栄光の座に着く時、あなたがたは十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばく(19:28)」との言葉を勘違いし「地上おける王国」の「主要大臣ポスト」を願っていたのです。

それを聞いて他の10人は腹を立てました。なぜでしょうか?実は彼らも同じことを願っていたからです(18:1-6)。彼らの間には普段から出世争いが渦巻いており、それが隠せないところまでヒートアップしていました。何ということでしょうか!イエス様はたった今「3度目の受難告知」をされたばかりなのです(18-19)。それなのに彼らは「自分の出世」のことで頭がいっぱいで喧嘩をしていたのです。

そんな彼らにイエス様はやさしく語られました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい(26-27)」と。イエス様は、彼らの「偉くなりたい」「人の先に立ちたい」という願いを頭ごなしに否定されず、そういう願望が人間の内にあることを認めた上で、その願いを良いことのために用いなさいと教えられました。つまり「リーダーになるな」ではなく、「立派なリーダーになりなさい」と教えられたのです。そこが単なる禁欲主義と違う点です。

エドマン博士はこう指摘します。「私達の大部分の者は『従う者』である。しかしながら、ある人々は学校や教会、職場や社会において『指導的な立場』にならなければならない。それ自体は悪いことではない。ただ彼らには、与えられた権力を自己の利益のために用いず、決して威張らず、人を支配しないことが求められる。むしろ愛と謙遜な心で、指導の任につかなければならない」(291-292意訳)

立派なリーダーとはどのような存在でしょうか。その完全な模範はイエス様です。イエス様は「仕えるものの姿をとり、ご自分を無にし、実に十字架の死にまでも従われ」ました(ピリピ2章)。◆そのような生き方は、リーダーだけに求められるものではありません。イエス様は「私が足を洗ったのですから、あなた方も互いに足を洗い合うべきです」と教えられました(ヨハネ13:14)。キリストの共同体(教会)は「仕えあう共同体」なのです!

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、
みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、
あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、
仕えるためであるのと同じです。
マタイ20章26-28節(要約)

第27回「逸脱に対する訓練」 ルカ10:41-42 ピリピ3:13-14

本日のテーマは「逸脱に対する訓練」です。あまり聞きなれない言葉ですが「逸脱」の意味を国語辞典で調べると「本筋や決まった範囲からそれること」とあります。つまり今日の学びは「的外れな人生を送らないための訓練」でもあるのです。ご存知のように「罪」の語源「ハマルティア」の意味は「的外れ」です。そう考えると、今日の訓練が、いかに大切であるかお分かりいただけると思います。私達はどのようにして「人生の本筋」を守り通すことが出来るのでしょうか…?

まず大切なのは、「二の次にすべきこと」に、固執しすぎないこと、です。これが結構難しいのです。どうでも良いことや、くだらないことであったら、固執することもないでしょう。しかし、くだらなくはなくても、「二番目ぐらいに大切なこと」には、結構、固執しすぎてしまうことがあるのではないでしょうか。少し回りくどい表現ですが、その分かりやすい例として、マルタを上げることが出来ます。

マルタは、イエス様をもてなすために忙しくしていました。それ自体は良いことでしたが、「最も大切な第一とすべきこと」ではありませんでした。むしろ「どうしても必要なただ一つのこと」を選択したのは、妹のマリヤだったのです。彼女はイエス様の足元にすわり、ただ御言葉に聞き入っていました。マルタは忙しくするあまり、そちらをおろそかにし、妹からそれを取り上げようとしていたのです。

エドマン博士はこう指摘します。「イエス様はもちろん、マルタの善意をよく理解しておられました。しかしイエス様は、おかずの数は減らしてもよいから、永遠のことについて語り合いたい、そして御言葉に耳を傾けて欲しいと願われていたのです。私達も同じような間違いを犯していないでしょうか。『良いこと(good)』にこだわりすぎて『最も大切なこと(best)』をおろそかにしていないでしょうか。『どうしても必要なことは、ただ一つ』です。それを見失ってはいけません。」

またパウロは言いました。「私はただこの一事に励んでいます。すなわち後ろのものを忘れ…」と。イザヤ書にも「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よわたしは新しい事をする。今やそれは芽生えている(43:18-19)」とあります。それがどんな過去であれ、過去にこだわってしまうとき、私達は本来の目標を見失い、いつの間にか「わき道」へと迷い込んでしまうことがあるのです。試してみてください。首から上だけは後ろを向きながら、まっすぐ走れますか?

大切なのは、しっかり前を向き「目標を目ざして一心に走ること」です。私達にはまだ「先」があります。過去を振り返り哀愁にひたっている暇はありません。私たちが目指しているのは、キリストご自身から与えられるところの「栄冠」なのです。それは試練に耐え抜き、良しと認められた人にだけ与えられるのです(ヤコブ1:12)。先に天に召された主にある兄弟姉妹も、私たちが悲しみにくれるより、立派に信仰の道を走り、栄冠をかむって、御国にて再会することを望んでいるでしょう。

パウロとマリヤには、共通点がありました。それは彼らが、今なすべき「ただ一つのこと」を、しっかり心得ていたということです。そして彼らは、そこから目を離さず、「ただその一事」に励んでいたのです。◆あなたはどうでしょうか?あなたの人生は、的を射た人生でしょうか?それとも、的外れな人生でしょうか?◆あなたの心を占領しているそのことは、今、本当になすべきことでしょうか?永遠の前に、どれほど価値のあることでしょうか?◆どうか私達の人生が、逸脱ではなく、栄冠へと続く人生でありますように。

「兄弟たちよ。私は、ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、
目標を目ざして一心に走っているのです。」
ピリピ3章13-14節(要約)

2008年5月11日日曜日

第26回「出世についての訓練」 歴代誌26章1-23節

本日のテーマは「出世についての訓練」です。ある方は「私は絶対に大丈夫。だいたい出世になんて『興味』も『縁』もない」と感じておられるかもしれません。しかし本当に大丈夫でしょうか?大げさなことではないのです。人と比べて、少しばかり目立つ立場、少しばかり影響力のある立場、少しばかり裕福な立場におかれるだけで、私達もすぐに、ウジヤと同じような失敗を犯してしまうのです…。

若い頃のウジヤは、確かに素晴らしい王でした。16歳で王とされた彼は、まだ自信がなかったのか、とにかく必死に、主によりすがりました。彼は、「主の目にかなうことを行な(4)い、主も彼を助けられ(75)、彼は異邦人との戦いにことごとく勝利を収めることができました。また、その他にも、彼は農業を振興し、多くの水ためを掘り、最強の軍隊を組織し、新しい兵器も考案し、国を強くしました。その結果、彼の名はついにエジプトにまで響き渡ることになったのです(8-15)。

しかし成功の絶頂にあったとき、彼の人生の歯車が狂い始めました。聖書によると「彼の心は高ぶり、身に滅びを招いた(16)」のです。具体的にいうと「本来、自分のするべき事ではない(18)」香をたくという「聖なる奉仕」にまで首を突っ込み、そのことを祭司アザルヤに注意されても、悔い改めるどころか、更に激しい怒りを燃やし、食って掛かったのです(19)。するとどうしたことでしょうか?彼の額に「重い皮膚病(新改訳:らい病)」が現れ、彼は悲惨な最期を遂げたのです。

何が間違っていたのでしょう。きっとウジヤは「自分の力を過信した」のでしょう。彼にも、生まれ持った「賜物」や「リーダーシップ」はあったと思います。しかしそれらは全て「主の助け」があって(7,15)、「なんぼのもの」だったのです。それなのに彼は、何を勘違いしたのか「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ(イザヤ10:13)」と考えてしまったのです。そしてついには、神の領域に属する、聖なる奉仕にまで、土足で踏み込んでしまいました。

いったい若い頃の彼はどこに行ってしまったのでしょうか。エドマン博士はこう書いています。「キリスト者に対する真のテストは、倒れそうになるほど労している時にではなく、むしろ高い地位に上り、人々から誉めそやされる頃にやってくる。多くの信仰者は、貧しさには耐えることができても、繁栄につまずいてしまう。労働には耐え得ても、豊かさには耐えられない。軽んじられても必死に頑張るが、いったん成功し、ちやほやされると傲慢になってしまう。そして、ついには自分を滅ぼしてしまうのだ(p276~要約)」。本当に恐ろしいのは出世(成功)なのです。

勘違いしてはいけません。出世(成功)そのものがいけない、のではないのです。もし、そういうことを本気で叫んでいる人がいるならば、きっとその人は他人の成功を「羨んでいる」のでしょう。「嫉妬とは、人が持っているものを羨むことであり、同時に人が持たないことを喜ぶ感情」です。騙されてはいけません。もっともらしい正義の背後には、人間の「最も汚い感情」が隠れていることが多いのです。

私たちが学ぶべき「出世についての訓練」は、次のことです。◆第一に、出世できなくても、決して卑屈にならないことです。努力しても与えられないのは、今のあなたには必要ないからです。しかし努力することをやめてはいけません。◆二番目に、出世できても、決して天狗にならないことです。それを与えてくださったのは「神様」です。「与えてくださった方への感謝」を忘れてしまうとき、その成功が「災い」となってしまうのです。

「乏しいからこう言うのではありません。
私は、どんな境遇にあっても
満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、
豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、
富むことにも乏しいことにも、
あらゆる境遇に対処する
秘訣を心得ています。」
(ピリピ4章11-12節)

第25回「幻滅に対する訓練」 ルカ24章1-35節

本日の学びは「幻滅に対する訓練」です。私達は、もう既に「遅延」「絶望」「病気」と学んできました。それらも広い意味での「幻滅の訓練」かもしれません。でも私達は改めて「幻滅の訓練」を学びたいと思います。なぜならクリスチャンにとっての幻滅とは、単に希望を失ってしまうことではなく「永遠の希望」に私達の目を開かせる「大切な訓練」でもあるからです。どういうことでしょうか…。

イエス様を目の前にして、二人の弟子たちは言いました。「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだと望みをかけていました」と。「望みをかけています」ではなく「望みをかけていました」と過去形で言ったのです。彼らは深く幻滅していました。「もう終わりだ」と感じていました。「どうして『キリストの復活』を信じられるものか」と感じていました。もうすべては「過去」の話だったのです。

彼らが信じたイエス様は、病人を癒し、群集に食べさせ、威厳をもって語られる力強いイエス様だったのです。そんなイエス様に出会い「この方こそイスラエルを購う、救い主(メシア)に違いないという望みをかけ」全てを捨ててイエス様に従って来たのです。でもそのイエス様は十字架につけられて死んでしまい、三日もたっていました。だから彼らは暗い顔をして、うつむき、論じ合っていたのです。

彼らには、復活のイエス様がまったく見えませんでした。彼らの「信じていた」イエス様は、もう既に十字架上で死んでしまったからです。彼らの幻滅はあまりにも深く、目の前のイエス様に気付くことも出来ませんでした。しかし彼らの「自分なりの悟りに基づく信仰」が砕かれてしまったことは、長い目で見れば幸いでした。なぜならその痛みを通して、彼らは本当の意味で見える者とされたからです。

多くの信仰者が「幻滅」を通して、信仰に深みに達するのはそのためです。エマオの途上で「二人の目はさえぎられて」いましたが、私達の霊的な目も様々なものにさえぎられています。それは「自分なりの悟り」や「思い込み」や「勝手な期待」かも知れません。しかし、良くも悪くも深い「幻滅」を味わうことによって、長い年月をかけて築いてきた、「自分なりの信仰」は粉々に砕けてしまうのです。

その時もう一度、真剣に聖書に向かい合うことが大切なのです。イエス様は「聖書全体の中からご自分について書いてある事がらを説き明かされ」ました。具体的には、ご自分の復活を聖書そのものから証明されたのです。するとどうしたことでしょう。二人の心が「内に燃え」はじめたではありませんか!それは奇跡を見た時のような激しい燃え方ではありませんでしたが、確かに力強い信仰の炎でした。

あなたは幻滅を感じた時どうしていますか。「失ったもの」に固執し、幻滅の沼にどっぷり留まり続けますか?人とのおしゃべり明け暮れ、何とか人からの同情や慰めを引き出そうとしますか?そこに本当の解決はありません。大切なのは聖書を開き、時間をかけて神様とじっくり交わることです。その時、私達の心は静かに燃え始めるのです。聖書に深く根ざした信仰は、少々のことでつまずきません。

私達はもしかしたら、今まさに「エマオの途上」にいるのかもしれません。失望と落胆が、私達を激しく揺さぶっているかもしれません。幻滅の谷はあまりにも深く、私達には渡りきれないと感じているかもしれません。◆しかしあなたが信仰を持って、目を上げるなら、インマヌエルの主が、共に歩んでおられることを知るでしょう。恐れる必要はありません。深い「幻滅」を乗り越える時、そこに「本当の希望」が見えてくるのです。

「道々お話しになっている間も、
聖書を説明してくださった間も、
私たちの心は
うちに燃えていたではないか。」
(ルカ24章32節)

草は枯れ、花はしぼむ。
だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
(イザヤ40章8節)

2008年4月14日月曜日

第24回「病気による訓練」ヨハネ9章1-3節,11章17-27節

本日の学びは「病気による訓練」です。この問題は、死の問題と並んで、一回きりで学びきれるものではないし、絶対的な答えがあるわけでもありません。いってみればこれは「主の奥義」に関することです。しかしその時になって、慌てふためかないためにも、普段からこの問題に、真摯に取り組んでおくことは大切です。まずは「人生の訓練」の著者、エドマン博士の言葉に耳を傾けてみましょう。

地のちりから造られた私達は、ありとあらゆる肉の弱さにさらされやすい。中でも無視できないのは「病気」である。私達は健康なとき、それを素晴らしいとは思わず、それを与えてくださった方に感謝をしようともしない。しかしいざ病気になると、体は自由に動かず、昼は寂しく、夜は長くなり、喜びは落胆となり、歌はため息となり、自然に涙が溢れてくる。それが「病気による訓練」である。(P253要約)

この訓練の最大の難関は、沸きあがる「疑問の声」であろう。どんな苦しみの中でも、希望と愛に対する確信があれば、歯を食いしばって耐えることが出来る。でも、その確信を失い、疑いに飲み込まれるとき、私達は本当の苦しみを経験する。その時私達はこう考える。「なぜこんな病気にならなくちゃいけないの?」「私に何か落ち度があったの?」「なぜ神は何もしてくださらないの?」(p253-254意訳)

イエスの弟子達も同じように考えた。彼らは盲人の前でこう言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか(9:2)」と。今までどれだけ多くの人々が、同じような冷ややかな視線や言葉に痛めつけられてきたことだろうか。間違った神学は、助けとならないばかりか、痛めつけられた家族を、更に苦しめる。それ以上に、残酷な言葉はない。

しかしイエス様の答えは全く違っていた。イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです(3)」と答えられた。周りはとやかく、ああだ、こうだと「因果(いんが)探し」をする。しかしイエス様は「目的」を教えられた。ラザロの時もそうだった。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです(11:4)」と言われた。その視線の先には希望が満ち溢れ、目の前の人に対する深い哀れみで満ち溢れていた。

でも多くの人々はこの言葉を誤解している。「神のわざがこの人に現れる」ということを「奇跡が起き癒されること」だけだと決め付けている。気持はわかるが「神様がどのように栄光を表すか」を私たちが決めることは出来ない。それは陶器が、陶器師に向かって「こうせよ」と命令をするようなものである(イザヤ29:16)。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに深入りしません(詩篇131:1)」。これこそ私達のとるべき態度である。

それでは「神の栄光」とは何であろうか?イエス様はマルタにこう言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と。◆つまり「神の栄光」とは、この『キリストにある永遠のいのち』が明らかになることなのです。それは癒しによってかもしれないし、別な方法によってかもしれません。それは分かりません。◆ただ一つ言えることは「私にとっては、病気になることも、癒されることも、生きることも、死ぬことさえも、この神の栄光につながるならば益」なのです!

たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、
測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(Ⅱコリント4章16-18節)

2008年3月13日木曜日

第23回「侮辱に耐える訓練」 マルコ11:1-11 15:1-20

以前、私達は「中傷に対する訓練」について学びました。その時はナバルに侮辱され激高したダビデが(Ⅰサム25章)、歳を経て、同じようにシムイに侮辱されたときには「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」と言い得るまで訓練されたことを学びました(Ⅱサム16章)。今回も似たような内容ではありますが、「侮辱」についてイエス様の生涯から学びましょう。

侮辱に耐えることの難しさについてエドマン博士がこう指摘しています。「侮辱や軽蔑に耐える訓練ほど忍耐力を試みるものはない。私達は自分に対する陰謀を無視することや、当てこすりなどに知らない振りをすることは出る来かもしれない。しかし、明らかに人を軽蔑した、ののしりの言葉や態度に耐えることが出来るだろうか?私達は侮辱されることについては本当に弱いのである。軽蔑に満ちた扱いを受ければ卑屈になり、侮辱されればけんか腰になってしまうのである。(p243)」

しかも「賞賛」と「侮辱」は、よく立て続けにやってきます。イエス様の場合がそうでした。十字架に付けられる6日前に、イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城したところ、群衆は手にはシュロの葉を持ち、道には自分達の服を敷き詰めて、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」と喜び叫んだのです。そこにラザロも一緒にいたことが、彼らの歓喜をさらに増し加え、喜びの歌声は、エルサレム中の建物を振るわせたことでしょう(ヨハネ12章)。

その同じ口が、一週間後には「十字架につけろ」と叫んでいたのです。なんという変わり身の早さでしょうか!結局彼らの熱狂は何だったのでしょうか?それは実に浅はかな、「奇跡見たさの熱狂」であり、イスラエルの救いを待ち望む「ナショナリズム的熱狂」だったのです。そして、そんな自分達の(身勝手な)期待が裏切られると、彼らは手のひらを返したようにイエス様を憎み、あざけり、痛めつけ、侮辱の限りを尽くし、ついには十字架にかけて殺してしまったのです…。

私達は人の評価に振り回されてはいけません。褒めちぎる人、お世辞を言いすぎる人、そういった人の言葉に躍らされ、勘違いしてしまってはいけません。熱狂しやすい人ほど冷めやすく、その言葉は非常に無責任です。「賞賛」と「侮辱」は常に紙一重で、大げさな賞賛ほど、むごい「侮辱」に変わりやすいのです。そのことを忘れて自分まで一緒に舞い上がってしまうとき、ちょっとした「侮辱」にも耐えられず、自尊心は粉々に砕かれ、落胆の沼に突き落とされてしまうのです。

侮辱を受けた際の、最高の模範はイエス様です。イエス様は、人々の熱狂にも、決して踊らされることなく、侮辱に対しても、打ちひしがれてしまうことはありませんでした。いつもその目は「アバ父」に向けられ、そのお方の前で「自分が何者であるのか」「どれほど愛されているのか」「自分の使命は何であるのか」を自覚しておりました。だから十字架という極限の状態の中でも自分を見失わず「父よ彼らをお赦しください(ルカ23:34)」と、人のために祈ることが出来たのです。

「神様は私へのそしりと、私の恥と私への侮辱とをご存じです(詩篇69:19)」。私たちはこの事を本当に信じているでしょうか?神様は、私たちの苦しみを全てご存知で、ともに苦しんでおられるのです。◆そればかりではありません、私たちが侮辱され、怒りに震え、心の中で相手を罵っているときにも、イエス様は、そんな私達のために「父よかれらをお赦しください」と祈っておられるのです。◆そう祈られる者として、私たちも、侮辱する者のために「父よ、彼らをお許しください」と祈ることは出来ないでしょうか?

あなたをのろう者を祝福しなさい。
あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
(ルカ6章28節)

第22回「不平不満に対する訓練」 民数記11章

今回のテーマは「不平不満に対する訓練」です。どうでしょうか?みなさんは、現在、何の不満もないでしょうか?もしかしたら「はい、私は何の不満も持っていません」と答えられる人がいるかもしれません。しかしその「満足」でさえ、ちょっとしたことで、「不平不満」の原因に変わってしまう事だってあるのです。

例えば他の人と比べてしまうことです。すると今まで持っていた「小さな幸せ」が、とたんに色あせて見えてしまい、惨めな気持ちになり、人をうらやむようになってしまいます。そして、それまで感じていなかった、不平不満が生まれるのです。ダビデもそうでした。彼はもうすでに十分に与えられていたのに、バテシェバを見た時に、「与えられているもの」だけでは満足できなくなってしまったのです。

荒野でのイスラエルの民も同じでした。彼らには「マナ」を与えられていました。それは聖書によると「コエンドロの種のようで、色はブドラハのようで」ありました。またそれで作ったパンは「おいしいクリームの味のよう」でした(11:4-8)。まさに「天からの食物」です!なのに彼らは、激しい欲望にかられ、大声で泣きながら「ああ肉が食べたい!(11:4)」と、わめき始めたのです。なぜでしょうか?

彼らはエジプトでの食事を思い出したのです。彼らは言いました。「ああ肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ」と。彼らだって、最初のうちは感謝でいっぱいだったのです。しかし次第にそれが「当たり前」になり、よりによってエジプトでの食事と比べて「不平不満」を並べはじめたのです。何という恩知らず!

もともとは奴隷であった彼ら自身が「助けてください」と叫んだのです(出エジ2:23)。だから神様はモーセを遣わして「パロの圧制」から彼らを救われました。そればかりか「乳と蜜の流れる約束の地カナンに、あなたがたを導く」との約束まで与えられ、雲の柱と火の柱が荒野での40年間、彼らを守り導いていたのです。何か不足があったでしょうか?いいえ。しかし彼らにはなおも不平不満がありました。

不平不満は恐ろしいものです。なぜなら与えられている恵みに対して、私達の目をふさいでしまうからです。あなたは大丈夫ですか?すでに見切りをつけたはずの過去の世界を思い出し「あの頃のほうが」と感じていないでしょうか?もしくは身近な誰かと比べ、「あの人はいいなぁ、それにひきかえ私は…」とみじめな気持ちになっていないでしょうか。または、そんなこと全然関係なく、とにかく「なんで私ばっかり」と不平不満をふくらませ自己憐憫に陥っていないでしょうか?

もしそうなら、無い物ねだりをやめ、与えられている恵みに感謝することです。きっとあなたにも、もうすでに多くの恵みが与えられているはずです。あなたには、何よりもイエス様の十字架によって「永遠の命」が与えられているではありませんか!パウロはこう言いました。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです(Ⅰテモテ6:6-8)」と。

愚か者よ、「あぁ肉が食べたい」と言う口をふさぎ、既に与えられている「マナ」に感謝しなさい。それでもまだ「足りない」と言うのなら、なお更のこと、私達にとっての約束の地「神の国とその義とをまず第一に求める」生活をする事です。決して、後ろ(エジプト)を振り返ってはいけません。そうすれば、私達の必要を誰よりも知っておられる天の父が、溢れんばかりの祝福を持って、私たちの必要を「全て」満たしてくださるのです。

だから、神の国とその義とを
まず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)

2008年3月5日水曜日

第21回「識別力における訓練」 Ⅰヨハネ4章

私達は以前にも何回か、同じようなテーマで学んだことがあります。しかし敢えてもう一度、このテーマについて学んでみたいと思います。なぜなら私達の人生は「決断の連続」だからです。エドマン博士はこう書いています(p225-226要約)。

「私達は日々襲い来る出来事に対して、鋭い洞察力をもって対処していかなければならない。しかし私達はどのように知ることが出来るのだろうか?果たしてそれらが本当に、全能なる神様の愛のから出たことなのか、それとも破壊的な暗闇の力から出たものであるのか。この試練は、主が自分に与えられた、負うべき十字架なのか、それとも避けるべきサタンの罠なのか?壁にぶつかる時は、御霊が禁じておられるのか、それとも悪魔が妨害しているのか?苦しみの中で差し伸べられる援助の手は、主が使わされた天使のものなのか、それとも妥協させるための甘い誘惑か?私達は一体どうしたらそれらを識別することができるのだろうか?」

結局のところ明快な解答はないのかもしれません。多くのことは、後になってから「あぁ、あれは、主が与えられた試練だったのだ」とか「あぁ、危なかった、もう少しでサタンの罠にはまるところだった」と言えるものですし、私達は決して安易に、「それは神様の御心だ」とか「サタンの誘惑だ」などと、自分なりの神学を振りかざすべきではありません!そんな時、私たちは、ただ沈黙の内に祈り、御言葉に聞き、手探りで「主の御心」を追い求めていくしかないのです。そしてそうした中で徐々に「識別力は訓練」され、私達は「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人(ヘブル5章14節)」へと成長していくのです。

しかし、そんなのんきなことも言っていられません。私達は今日も何かを決断しなければならないのです。もちろん、スーパーマーケットで大根を買うのが「御心か」などと、ノイローゼ気味になる必要はまったくありませんが、大事なことに関しては、やはり「それが本当に御心なのか」を吟味しなければならないのです。ではどうやって吟味したらよいのでしょうか。いくつかの原則を紹介しましょう。

まずは「ただ自分の欲によって決断しようとしていないか」と吟味することです。聖書にははっきりと「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではありません(ヨハネ2:16)」とあります。自分の欲望に目がくらみ、目先の利益だけを追い求める人生、それこそが聖書で言うところの「罪(ハマルティヤ)」なのです。

だから私達はいつも「本当にそれが、永遠の前で価値のあることかどうか」を吟味しなければならないのです。この世で欲しいものを手に入れ、やりたいことを全部やったとしても、それが永遠の前に何の意味があるのでしょうか?私達はむしろ、この世では損をしようとも、本当の意味で天に宝を積む事を選択すべきなのです。

そして最後に「それは本当に愛から出ているか」と吟味することです。この場合の愛とは、自分を愛する「自己愛」のことではありません。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛すること』そして 『あなたの隣人をあなた自身のように愛すること』(マタイ22:38-39)なのです。この愛から出た、「言葉」「行い」「決断」こそが、神様の御前に「真に優れたこと」なのです!

あなたの「識別力アンテナ」は研ぎ澄まされているでしょうか。それとも長いこと使っていなくて、すっかり錆付いてしまっているでしょうか?◆「識別力の訓」は、使えば使うほど研ぎ澄まされます。その人は本当の意味で、ますます「豊かに」なるのです。


私は祈っています。
あなたがたの愛が、
真の知識とあらゆる識別力によって、
いよいよ豊かになり、
あなたがたが、
真にすぐれたものを見分けることが
できるようになりますように。
(ピリピ1章9-10節)

2008年2月27日水曜日

第20回「落胆に対する訓練」ヨブ記 ヘブル12章

前回のテーマは「疲労困憊に対する訓練」でした。私達はエリヤの生涯から、疲労困憊に陥ってしまうとき、まず必要なのは、十分な休息と肉体の栄養であることを確認しました。しかしそれだけでは霊的な疲労は取れず、最終的には神の前に出て「細き御声」を聞き、人生に新しい「使命(ミッション)」をいただくことが大切だと学びました。今回もその内容と非常に良く似ていますが、また違った角度から学んでみたいと思います。今回のテーマは「落胆に対する訓練」です。

まずは、自分ではなく、他人が落胆していたらどうしたらよいのかを考えましょう。その反面教師がヨブの友人たちです。エリファズはヨブに言いました。「さあ思い出せ。誰か罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ(4:7-8)」と。これを聞いてヨブの心はどんなに痛んだことでしょうか!最も慰めを必要としている時に、よりによって友からお説教され、裁かれてしまったのです。ヨブは言いました。「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう(6:14)」つまり、それくらいの悲しみだったのです。

私達は、苦しむ友に対して、ヨブの友人のようなことを言ってはいないでしょうか?クリスチャンの熱心さは、時に人を大きく傷つけます。聖書にはこうあります。「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい(ヤコブ1:19)」また「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」と。神様は最終的にエリファズをこう叱責されました。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それはあなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ(42:7)」と。人を裁くものは、その同じ秤で持って、神様によって裁かれるのです(マタイ7:2)。

では、逆の立場ではどうでしょう。思いがけない不幸が、自分の家族に災いが襲ってきて…。自分だけは何とか頑張ろうと思っても、自分まで病気になってしまい…。精神的にも肉体的にも追い詰められ、親しい友人には「分かって」もらいたいと思っても、友人は友人で自分のことで精一杯で、全く理解されず…。おせっかいな友人にはお説教をされ…。そうこうしている間にも、段々と気力も体力も奪われ、気付けば「落胆の沼」へとどっぷりはまり込んでいる。そんな時私達は、周りの全てを遮断し、自分の殻に閉じこもってしまいたいという誘惑にかられます。

しかしそこであえて「走り続ける」という選択肢もあるのです。これは全ての人にはお勧めできません。普通だったら休んだほうがいいのです。ゆっくり休んで、祈りと御言葉に時間を割き、癒されるのも一つの方法でしょう。しかし健康的にボロボロになっても、精神的にズタズタになっても、霊的スランプに落ち込んでいても、それでも尚「主イエスを見上げて走り続ける」という第三の道があるのです。そうすることによって、ある人々は健康なときには知りえなかった「弱さにおける恵み(Ⅱコリ12:9)」や、自分の力によらない「御霊の原理(ローマ8章)」を体験するのです。その時私達の信仰の扉は別次元に向かって大きく開かれます。歴史上の信仰の偉人と呼ばれる人々は、大体そういうところを通らされた人達です。

この中にも「落胆している者」があるでしょうか?「もうダメだ」と感じている人がいるでしょうか?そんな時はあえて走り続けることが、あなたの心を守ってくれることもあるのです。◆すると不思議なことに、ふと足が軽くなる瞬間がやってきます。自分の力ではなくて、主の恵みと御霊の力によって、走っていることに気付く時がやってくるのです。

「忍耐をもって
走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、
完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
あなた方の心が元気を失い、
疲れ果ててしまわないためです」
(ヘブル12:1-2、4)

第19回「疲労困憊に対する訓練」Ⅰ列王記19章

本日のテーマは「疲労困憊に対する訓練」ですが、人生には「山」もあれば「谷」もあります。それはクリスチャンとて例外ではありません。恵みの高嶺を歩むこともあれば、霊的スランプに陥ったり、死の陰の谷を歩んだりすることもあるのです。そしてそれらはよく、立て続けに私たちを襲います。エリヤの人生を見る時に、そのことが顕著に現れています。彼はバアルの預言者との直接対決で、劇的な勝利を収めました。しかしその直後に「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」と死を願っているのです。いったい何がおきたのでしょうか?

疲労困憊の意味を辞書で調べてたら「からだや頭を使い過ぎたり空腹の度が過ぎたりした結果、肉体的・精神的に持続力がなくなる状態」とありました。確かにこの時のエリヤは疲労困憊していたのでしょう。あのカルメル山において450人のバアルの預言者を相手に孤軍奮闘したことは、想像を絶する緊張とエネルギー、プレッシャーとストレスだったでしょう。しかもやっと勝利したのに事態は何も変わっていなかったのです。イゼベルは依然自分の命をつけ狙い「あすの今頃までに」は殺すというのです。エリヤにはもう戦う気力が残されていませんでした。

しかしそれ以上にエリヤを疲れさせたのはイスラエルの民の態度でした。彼らは確かにカルメル山での大勝利を見て「主こそ神です。主こそ神です。」と主に立ち返りました。しかしエリヤの命が狙われている今、彼らは何も言わず、立ち上がろうともしないのです。エリヤの怒り、苛立ちは、アハブやイゼベルに対してよりも、そんなイスラエルの人々に向けられていたのです。その証拠にエリヤは、主に二度も「イスラエルの人々は…私の命をねらっています(10,14)」と訴えています。彼は自分がこの民のためにしてきたことが無駄だったと嘆いているのです。

そうして彼は、生きる気力を失ってしまいました。心身の疲れに、自分のしてきたことが無駄だったという精神的な落胆、それに加えて、消えることのないプレッシャー、不安、孤独…。もしかしたら彼は「どうして主はこんなにも私を苦しめるのか」と言葉にならない不平不満を抱え、霊的スランプに陥っていたのかもしれません。そんな時、主の使いが現れ、最初に言われたことが「起きて、食べなさい(19:5)」だったのです。神様は、疲労困憊している人に、いきなり「お説教」をされません。私達の弱さを知り、まずはゆっくり休みなさいと言われるのです。

そして、その上で「ここで何をしているのか(9)」と言われました。その時の彼は、ほら穴の中にいましたが、それは彼の精神状態を表していました。彼はただ、洞穴の中に閉じこもり、自分の周囲の暗闇ばかりを見つめ、狭い世界に閉じこもっていたのです。そんなエリヤに、神様は「ここで何をしているのか」と言われました。それは単に、そんなところに閉じこもってないで明るい世界を見なさいという意味ではありません。「外に出て、山の上で、主の前に立て(11)」と言われているのです。それがなければ、どんなゆっくり休んでも、霊的な疲労は取れません。

主の前でエリヤは「かすかな細い声」を聞きました。それはカルメル山で激しい体験をし、その後スランプに陥っていたエリヤに対する、神様からの教訓ではないでしょうか。つまり神様はここであえて「細い声」を通して語られることで、信仰というものは、そうした地道な神様との交わりに基礎を置くことだとエリヤに教えようとされていると思うのです。そこにこそ本当の霊的な活力があるのです。

あなたは疲れていませんか。もし疲れているなら、まずは美味しい物を食べて充分に休んでください。そしてその上で主の前に立ち、細き御声を聞いてください。そこで主はもう一度「行け、帰れ、あなたの道を(15)」と私たちをこの世に派遣してくださるのです。

「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
主は仰せられた。
「外に出て、山の上で主の前に立て。」
(Ⅰ列王記19章9,11節)

2008年1月31日木曜日

第18回「荒野での訓練」 出エジプト2:11-3:14

人生には「荒野での訓練」というものが存在する。「これからだ」というときに限って、肉体に弱さが与えられたり、精神的にダウンしてしまうときがある。ある者は、そのような状況に追い込まれるとき、自己憐憫の罠に飲み込まれ、本当にダメになってしまうだろう。しかし主に信頼するものは、そのような困難の中でも、腐らず、コツコツと訓練を積み重ねる。そしてその訓練によって培われた強靭な精神と信仰をもって、健康なときに成しえた仕事よりも、更に大きなことを成し遂げるようになる。今日はモーセを通して、そんな信仰者の姿を学びたい。

荒野に行くまでの彼は、宮廷で育ったエリートでした。当時最高の学問を学び、もちろん王子として、リーダーシップについても訓練を受けていたことでしょう。しかし出エジプトの大事業を果たすためには、まだまだ信仰においても人格においても足りないところが多々ありました。事実、彼が自らの正義感から立ち上がったとき同胞のヘブル人でさえ彼について行きませんでした。神様は彼の欠けた部分を補うため、彼を荒野へと導き、そこで40年間じっくり訓練されたのです。

彼はまず荒野で「孤独」を学びました。長男につけた名前に、その時の心境がにじみ出ています。その名はゲルショム「私は外国にいる寄留者だ」でした。誰にもちやほやされず、ひたすら荒野で羊を追う毎日、しかし彼はその中で、自分でも気付かないうちに大切な訓練を受けていました。それは「孤独の中で神様と一対一で向き合う訓練です」。リーダーと言うものは孤独なものです。しかしその中で神様と向き合い、答えを頂き、民を導いて行く責任がリーダーにはあるのです。

また彼は、主への「信頼」を学びました。主への信頼とは、たとえ絶望的な状況の中でも「神様は私達の祈り聞き、約束を覚え、いつも見ておられ、私たちを知っておられる」と信じつづけることです。彼はそういった神様に対する信頼を、劇的な何かによって培(つちか)ったのではなく、荒野において40年間、ただ毎日羊を追い続け、家族と暮らす中でゆっくり培っていったのです。燃える鉄は、ゆっくり冷まし、何度も何度も打つことによって、粘り強く、折れにくくなるのです。

また彼は、荒野で「謙遜」を学びました。エジプトにいたころの彼は、どちらかと言えば「俺が世の中を変えてやる」といったような、強引なところがありました。だから神の時を待たず、自分の熱心さだけで行動し、あっという間に躓いてしまったのです。その失敗により彼の自信は砕かれました。しかし彼はもっと大切なものを発見しました。神様は燃える柴の中からこう言われました「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」と。この一言によって、彼は神様の前で、おのれが何者かを知ったのです。

そうして彼は、神とともに歩む者と変えられました。燃える柴の中から、主はこうとも言われました。「わたしはあなたとともにいる。わたしは、『わたしはある。』という者である」と。自我を砕かれ、謙遜にせられることによって、この「ともにいてくださる主」の力強さを知ることが出来るのです。この「荒野での訓練」によって、モーセという人は「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった(民数記12章3節)」と呼ばれる、歴史上最も偉大なリーダーとなっていったのです。

皮肉なものです。40歳のという心身ともに充実していた時には挫折し、80歳という世間的に見れば引退を決め込むときに、主によって押し出されたのです。その人の願いや努力が、いつ、どのような形で花開くのかは分からないものです。◆大切なのは「荒野での訓練をどう過ごしたのか」なのです。腐ったらそれまでです。しかしその中でも主を信頼し、コツコツと、誠実に歩んできた者は、やがて時が来て、大きく主に用いられるのです。

「まことに主がこの所に(荒野にも)おられるのに、
私はそれを知らなかった。」
創世記28章16節

第17回「成し遂げる訓練」

古くから「何かを始めたら、それを最後までやり遂げなさい」という格言があります。しかしなぜ成し遂げなければならないのでしょう?また、どうしたら成し遂げることが出来るのでしょう?あなたはその問に答えることが出来ますか?以前にも「敢行の訓練」について学んだことがありますが、今回は、また別の視点から、光をあてて見たいと思います。今回のテーマは「成し遂げる訓練」です。

多くの人は、新しい事を始めることは大好きです。大きな夢と希望を抱いて、胸をワクワクさせながらそれに取り掛かります。時には食事をするのも忘れて、それに没頭します。しかし残念ながら、それを「成し遂げる力」に欠けています。何かの拍子に、急に熱が冷め、飽きてしまうのです。そればかりか、様々な言い訳を自分にします。「いやぁ、あれはやるだけの価値がなかったのですよ」など。

もっともらしい口実は、いくらでも手に入ります。ある人は目を輝かせて、熱心にこう言います。「今までとは違う、もっと大きくて、素晴らしいヴィジョンが与えられた」と。そして、既に手にかけていた仕事を放り出して、まったく新しい夢を追いかけようとするのです。しかし気を付けてください。それもは「もっともらしい理由をつけた逃避」ではないでしょうか?夢を語っているようで、ただ投げ出したい誘惑に負けて、中途半端に放り出しているだけなのはないでしょうか?

その結果、私たちが得るものはなんでしょうか?それは「何をしてもすぐに止めたくなる悪い癖」です。その人は常に新しいことを始めているのですが、実際は段々と低いところに落ちて行っているのです。そして同じ失敗を何度も繰り返すのです。当然です。何も成し遂げていないのですから次のステップに進めるわけがありません。しかし同じように表面上は成し遂げられなかったとしても、何かに真剣に取り組んだ人は、そこから尊い何かを学び取り少しずつ前進しているのです。

愚か者よ、蟻のところに行って学んできなさい。冬の間にせっせと耕し、刈り入れの時期を待ちなさい。明日がその時かもしれないのです。遠くの夢ばかりを見ているだけではなく、既に与えられている目の前の仕事をまず完成させなさい。そうすれば、その一歩先が見えてくるのです。そうした小さなことの積み重ねによって「忍耐力」が養われます。すると神様はそういった人に、もっと大きなことを任せてくれるのです。小さいことに不誠実な人には大きなことも任せられません。

しかしそれは単なる自己実現とは違います。人の意見に耳を傾けず、自分の確信(欲望)だけに固執するなら、あなたはいずれ誰からも相手にされなくなるでしょう。大切なのは「祈り」です。イエス様がゲッセマネで祈られたように「わたしの願いではなく、御心の通りに」との祈り(心の余白)が、私たちには必要です。自分の野望を成し遂げるのではなく、神様の御心を成し遂げることが大切なのです(ヨハネ4:34)。もしそれがズレているなら思い切った方向転換も必要になるでしょう。

「成し遂げる訓練」その最高の模範はイエス・キリストの生涯にあります。イエス様は「まことに神の子」でありながら「まことに人の子」でもあられました。当然、人としての「死に対する恐怖」や「そこから逃れたいという誘惑」もあったことでしょう。しかしイエス様は、そこから一歩も引かず、苦しみもだえ、血の汗を流すような祈りを通して、それら全てに勝利を取ってくださったのです。「完了した」との宣言は、血のしずくの結晶です。私達はこの地上で何を成し遂げたいと願っているでしょか?それは御心にかなっているでしょうか?崇高な目的のために生き、それを成し遂げられる人は何と幸いでしょうか!

神は、みこころのままに、
あなたがたの内に働いて志を立てさせ、
事を行なわせてくださるのです。
すべての事をつぶやかず、
疑わずに行ないなさい。
そうすれば自分の努力した事が無駄ではなく、
苦労した事も無駄でなかったことを、
キリストの日に誇ることができます。
(ピリピ2:13-16 要約)

2008年1月10日木曜日

第16回「死生観における訓練」(ピリピ1章27節-2章11節)

新年最初の聖書研究会です。ある人はまだ白紙の2008年というキャンバスを前にして、どんな絵を描こうかワクワクしながら、様々な抱負や計画を立てているかもしれません。でもちょっと待ってください。聖書には「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(ヤコブ4:15)」とあります。生きていることは当たり前ではなく、生かされているのです。今回のテーマは「死生観における訓練」です。

中世の修道士達は「メメント・モリ」と挨拶をしました。直訳すると「死を覚えよ」という意味ですが、そこには「今日も、命を与えてくださっている、主を覚えよ」との積極的なメッセージも込められています。人生の終わりを意識する時に、私達は「いま、与えられているいのちの大切さ」に目が開かれます。また、その命が偶然にではなく、神様によって与えられていることを覚える時に、「その神様の御心が何であるかを考えながら」、一日一日を大切に生きるようになるのです。

この世の死生観は全く違っています。多くの人は「死を他人事」のように考えているのではないでしょうか?そして限られた時間をダラダラと無駄に過ごしているのです。またある人々は間違った方法で死を意識しています。「どうせいつかは死ぬのだから、生きている間に、自分の好きなことをして、自分の力を試してみようじゃないか」と。そこに、いのちを与えてくださっている方への感謝も、その方の御心も求める求道心もなく、ひたすら「自分」を追求しているのです。

その結果、どれだけの人が本当に満足しているのでしょか?この世の与えてくれるものは「お金」にしろ「快楽」にしろ「名誉」にしろ、いつも一時的な満足しか与えてくれません。そして同じ満足を得るためには、よりたくさんの「お金」と「快楽」と「名誉」が必要となるのです。それを「快楽の中毒性」といいますが、人間の欲望というものは、どれだけ追求しても決して満足することはないのです。

パウロの生き方はまったく違っていました。彼は言いました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と。でも実際の彼は、このピリピ人への手紙を書いた時、獄中にいました(1:13)。また折角たて上げたピリピ教会は、後から入ってきた者によって乗っ取られてしまいました(1:17)。どこが「益」なのでしょうか?しかしそれでも彼は「キリストが述べ伝えられているのなら私は喜ぶし、今からも喜ぶことでしょう(1:18)」と告白しているのです。彼にとっての「益」とは、ただ「キリストのすばらしさが現れること(1:20)」だったのです。

私達は本当に「キリストのすばらしさ」を残そうとしているでしょうか?それとも「自分のすばらしさ」を残そうとしているでしょか?見せかけの善行や熱心さ、そういったものは、結局、自分の名を残そうとする「党派心」や「虚栄心」「欲望の追求」なのではないでしょうか?私達は、本当に心から「キリストのすばらしさが現わされること、それが私の切なる願いです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:20-21)」と告白できるでしょうか?

福音にふさわしい生活、それにはいろいろなことが言えるでしょう。聖い生活や、愛の実践、伝道のために一致奮闘する生活(1:27)など。しかし一言でいえば、キリストのように「自分を無にする生活」なのではないでしょうか。◇イエス様は、ご自分を無にして、家畜小屋に生まれ、十字架にかかってくださいました。これが最高の模範なのです。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2章6-8節)