2007年12月8日土曜日

第15回「絶望における訓練」(マタイ14章22-33節)

今回のテーマは「絶望における訓練」ですが、果たしてクリスチャンの生涯は、苦悩や危険、絶望や落胆と無縁でしょうか? いいえそんなことはありません。クリスチャンにも、失望や緊迫、過酷や拷問的な苦しみの瞬間があります。そして自分自身や、自分の愛する者が、生と死の天秤に乗せられることもあるのです。私たちには、それを自分の願う方向に傾ける力はありません。そのために何かをすることも、気を失うことも許されず、ただ神様に向かって祈るほかないのです。

その時、信仰を持たない人はなんと無力でしょうか。祈るべき方を知らないということは、何という孤独でしょうか?助けを求めるべきお方を知らないということは、なんという悲劇でしょうか?主の耳は、私達の叫びが聞こえないほど鈍くはありません。主の御手は、私たちを救えないほど短くはありません。このお方を知り、どんな時にも「主よ助けてください!」と祈ることの出来る人は幸いです。

ペテロはそんな信仰の持ち主でした。彼はただの「信仰の薄い人」ではありません。確かに彼のやり方は、性急で、彼らしく、危なっかしさを含んでいました。しかし彼は少しでもイエス様に近づきたくて、「来なさい」と言われれば、水の上を歩くという危険を冒してでも、イエス様に従いたいと思っていたのです。私達は往々にして、舟の中に黙って座っていた、11人のようではないでしょうか。理にかなったことだけを求め、決してイエス様のために冒険しようとしないのです。

しかしイエス様に従う者は、時に「人生の嵐」に遭遇するのです。聖書にもこのようにあります。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです(ピリピ1:29)」。この言葉に躓いてしまう人もあるかもしれません。怖くなって、自分の「舟」に引き返し、しがみついてしまう人もいるかもしれません。しかし主イエスを愛する者は、それでも自分の舟を降りて、未知の湖面に体重をかけ、一歩一歩進んでいくのです。

イエス様から目を離すときに、恐れが、私達の心を覆い尽くします。ペテロもそうでした。彼は「風を見て、こわくなり、水に沈みかけた」のです。私たちも同じです。困難や試練に会う時に、イエス様から目をそらし、この世の波風ばかりを見てしまう時に、「失望」「落胆」「絶望」という湖に沈んでいってしまうのです。そう考えると、極端な恐れは、やはり不信仰の結果だと言わざるをえません。イエス様に対する畏れがなくなるとき、私達は「人生の嵐」を恐れてしまうのです。

イエス様はそんなペテロの手をつかみこう言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と。それは決して一方的な叱責ではありませんでした。その証拠に、見上げると、そこにはペテロの手をしっかり握っておられる、慈愛に満ちたイエス様のまなざしがあったのです。私たちも同じです。人生の嵐の中でイエス様に「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」といわれてしまうかもしれません。しかしそんな時でも、イエス様の御手は、私達をしっかりと握って、離さないのです。

信仰とはなんでしょうか?それは、自分の力でイエス様の御手をしっかり握ることではありません。そうではなくて、たとえ絶望的な状況の中でも、私たちの手をしっかり握って離さないイエス様の御手を覚え、その愛に信頼し、この方を恐れ、イエス様から目をそらさないことなのです。その時私達の歩みは、試練の中でも決して揺るぐことがありません。

信仰の創始者であり、完成者である
イエスから目を離さないでいなさい。
(ヘブル12章2節)

それは、地のすべての民が、
主の御手の強いことを知り、
あなたがたがいつも、
あなたがたの神、主を恐れるためである。
(ヨシュア記4章24節)

第14回「孤独を通しての訓練」

今回のテーマは「孤独を通しての訓練」ですが、はたして私達は、孤独から何かを学ぶことが出来るのでしょうか?人には、孤独を愛する人や、孤独が苦手な人など、色々いますが、誰一人として「完全な孤独」の中で生きていける人はいません。人間は、読んで字のごとく「人々との間で生きていく存在」だからです。

ある人は、孤独を誤魔化すために、賑やかさを求めます。放蕩息子もそうだったのかもしれません。遠い国に旅立ち、家族や友とも切り離され、本当は孤独だったのかもしれません。だからこそ、その寂しさをまぎらわせるために、お金を湯水のように使い、宴(うたげ)の中に身を置き、自分自身を誤魔化していたのかもしれません。しかし金の切れ目が縁の切れ目、お金が無くなった途端に、友は離れて行き、置かれた現実(本当は孤独な自分)をまざまざと見せつけられたのです。

その時、彼は我に返り「本当の交わり」を求めはじめました。それは、自分のことを誰よりも愛してくれる、お父さんとの交わりでした。それまでは、その愛が自分にとって、それほど重要なことだとは感じていませんでしたし、むしろ「わずらわしい」とさえ感じていました。しかし孤独を通して、彼はその重要性に目を開かれ、父のもとに帰っていったのです。この父こそ「父なる神様」のことなのです。

私たちにも孤独は必要です。この世の賑やかさに心を奪われている間は、「神様との交わり」なんて、それほど重要だとは思えないかもしれません。多くの人は、神とか教会とか、何だか窮屈に感じるのもそのためです。しかしそんな人も、本当の孤独を経験する時に「わたしはあなたを愛している」と言ってくださるお方の存在に気付き始めるのです。そして我に返り、「アバ父(天の父)」のふところに帰っていき、そこで新しい兄弟姉妹の交わり(教会)を経験し始めるのです。

ボンヘッファーはこう言いました(「共に生きる生活」p71)。「この世の作り出す『賑やかさ』の正体とは、驚くべき孤独を作り出すところの陶酔(とうすい)状態である。それはしばらくの間、孤独を忘れさせてくれるかもしれないが、その陶酔状態から覚めれば、以前にも増した孤独が襲ってくる。そして、そのようなことを続けるなら、我々はやがて精神の死へと行き着くのである」と。この精神の死こそ、本当の交わり、つまり父なる神様と兄弟姉妹との、交わりの喪失なのです。

イエス様は、いつも「寂しい所」に退かれました。そして、自分をあえて孤独の中に置き、常に父なる神の細き御声に耳を傾け、一日を始めらました。そして、ただ寂しいところに閉じこもっていないで、多くの人々と触れ合われたのです。だからこそ、イエス様の言葉と行いには「不思議な力」がありました(マタ7:29)。

聖書には「黙っているのに時があり、話をするのに時がある(伝道3:7)」とあります。私たちには、この両方が必要なのです。主の前に黙ることをしない者は、いくら饒舌(じょうぜつ)に語り、おせっかいをやいても、それは、うるさいドラやシンバルのようなものです。しかし反対に、黙ってばかりいて、一人とじこもっていても何も始まりません。神様と兄弟姉妹は、あなたと語り合いたいと待っています。

あなたは主の前に静まっていますか?世的な賑やかさや、メールや長電話によって、本来感じるべき孤独を誤魔化していませんか?そしてますます孤独になっていませんか?◆まずは主の御前で孤独になること。その時、聞こえなかった心の叫びや、主の細きみ声が聞こえてきます。孤独を知るもの同士が集まるときに、真の交わりが生まれるのです。

キリストのことばを、
あなたがたのうちに豊かに住まわせ、
知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、
詩と賛美と霊の歌とにより、
感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
(コロサイ3章16節)

2007年11月22日木曜日

第13回「欲望に対する訓練」

今回のテーマは「欲望に対する訓練」ですが、この世には、様々な欲望が渦巻いているのではないでしょうか?以前もお話しましたが、私が牧師になる時、ある老齢の牧師がこのようなアドヴァイスを下さいました。「川村さん、あなたが牧師になったら、私も気をつけていることですが、特に三つの『欲』に気をつけなさい。それは「金銭」「名誉」「性欲」ですよ」と。驚いてしまいました。なぜならその先生はとても聖く、そのような欲望とは無関係のように思えたからです。

私達は誰もがこの『欲望』とは無関係ではありません。自分の心を「映写機で移しても平気」と言える人がどれくらいいるでしょうか?私達の心の中には「欲望」が、台風のごとく渦巻いているのです。聖書の中には「肉の欲」のリストとして「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」などが上げられていますが、はっきり言って、そのような者が、そのままで「神の御国に入ることはない(ガラ5:19-21)」のです。

また聖書には「世を愛してはなりません(Ⅰヨハ2:15)」とも書いてあります。でもおかしくはないでしょうか?ヨハネ3章16節には「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあるではありませんか。しかし同じ「世を愛する」という言葉でも、その意味するところは全然違うのです。神様がこの世を愛される場合、罪にまみれた世界を、悲しみをもって愛しておられるのですが、私たちの場合はそういった悲しみなどなく、この世を「溺愛」してしまうのです。

ジョンウェスレーはこう言いました(p136)。「何でも、キリストに対する私達の愛を冷やしてしまうものが『世』である」と。つまり、あまりにも熱中しすぎて、イエス様を忘れさせてしまうもの、そして霊的な飢え渇きをマヒさせてしまうもの、それが私達にとっての「世」なのです。「読書」「スポーツ」「趣味」など本来は健全なものでも「世」となってしまいます。ふと気づくとそのことばかりを考えていて、聖書の話が心に響かなくなったら黄信号です。あなたは大丈夫ですか?

もし欲望の罠にはまってしまったら、どうしたらよいのでしょう?答えは「逃げなさい!」です。聖書には「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい(Ⅰペテ2:11)」「悪はどんな悪でも避けなさい(Ⅰテサ5:22)」とあります。逃げるなんて臆病だと思いますか?そうではありません。自分の「弱さ」を認め、逃げることの方が勇気のいることなのです。また、誘惑する人にも近づいてはいけません。聖書にはこうあります。「彼らの仲間になってはいけません(エペソ5:7)」と!

その上で、人をも誘惑してはいけません。あなたにとっては平気なことであっても、他の人には誘惑となることだってあります。あなたにとっては、お酒を飲むことが平気なことであっても、それを勧める事によって、相手が深刻な影響を受けてしまうことだってあるのです。また同じ理由で、女性は肌の露出をしすぎないよう服装に気をつけるべきでしょう。クリスチャンは、律法主義ではなくて、弱い人への配慮から、自分の権利を控えるべきなのです。聖書にはこうあります。「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです(ルカ17:2)」と。

もしもあなたの心が欲望に負けそうになったら、早めに、それを明るみに出しなさい。それを神様の御前に告白し、信頼できるクリスチャンに何度も何度も祈ってもらいなさい。◆もし失敗してしまっても、それを何度も繰り返しなさい。一度誘惑に負けた人は、人一倍誘惑も強く感じるものです。一人で暗闇を歩み続けるより、光の子らと共に歩むのです!

こうしてあなたがたは、地上の残された時を、
もはや人間の欲望のためではなく、
神のみこころのために過ごすようになるのです。(Ⅰペテロ4:2)

第12回「悪意に対する訓練」

今回のテーマは「悪意に対する訓練」ですが、そのことをダビデの生涯を通し学びたいと思います。少年ダビデは一介の羊飼いでした。その彼が、サウル存命中に、王としての油注ぎを受けるのですが、そのことはしばらく公表されず、彼は、サウルのお抱えの琴奏者として王宮に出入りしていたのです。ですがゴリアテの一件があり、ダビデの人気は国中に一気に高まり、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と騒ぎ立てられます。それは大いに、サウルの機嫌を損ねました。

そして、その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになったのです。この「疑いの目」とは、新共同訳聖書で「ねたみの目」とも訳されていますが、サウルは、王である自分より尊敬と人気を勝ち取ったダビデに、激しい嫉妬を抱いたのでした。Ⅰテモテ6章4節には「疑いをかける病」があるといいます。そして、いったんこの病にかかってしまうと「そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、絶え間のない紛争が生じる(同5節)」のです。嫉妬の病は実に恐ろしい!

エドマン博士は、この「ねたみ」について、こう指摘します。「ねたみというものは、どんな場合でも、残酷なものである。ねたみのゆえにアベルはカインに殺され、ヨセフは兄達の手によって奴隷として売られ、キリストは十字架に付けられた。ダビデも、このねたみのために苦しめられた。彼は従順で、謙遜で、慎み深い一平卒にしすぎなかったのに、王のひがみ根性のゆえに命を狙われた(p130~)」と。しかしそれでもギリギリのところまで逃げ出さず、最後の最後まで王のために琴を弾き続けたのです。一体ダビデはどんな気持ちで琴を奏で続けたのでしょう…。

私達はどうでしょう。ダビデの様に、人からの悪意にさらされても、その悪意に毒されず、振り回されず、逃げ出さず、自分を保ち続けることが出来るでしょうか?その只中にあっても、その悪意を持つ人に仕え続け、最後まで、誠実を貫き通すことが出来るでしょうか?ダビデは、その「訓練」に勝利を収めることが出来ました。だからこそ神様は、ダビデに多くのもの(賜物、奉仕)を任せたのでしょう!

ある人は言うかも知れません。「いやぁダビデは、サウルが、主に油を注がれた方だったから、手を下せなかっただけさ(24:6)」と。確かにそういう面もあります。しかし言い訳は許されません。新約聖書には、はっきりこう勧められているからです。Ⅰテサロニケ5章15節「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい」と。

それを本気で実行しようとする時、私達の主に対する「信頼」が試されます。主に信頼していないと、どうしても自分の判断で逃げ出したくなる。また、自分に力があれば、どうしても何倍にもして復讐したくなる。しかしローマ12章19節にはこうあります。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをすると主は言われる』」と。悪意に悪意で答えては絶対にいけません!

つまり「悪意に対する訓練」とは、この「主に信頼する訓練」でもあるのです。ただ悪意に対して我慢するだけではない、主に信頼し、相手の祝福のために祈るのです。それができて、初めて「悪意に対する訓練」に合格することができるのです。◆もし私たちが、この訓練を真正面から乗り越えるなら、日々襲いくる困難にもめげず、悪意にも押しつぶされず、多くを任されるクリスチャンになるのです!

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、
かえって祝福を与えなさい。
あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
(Ⅰペテロ3:9)

第11回「喜びについての訓練」

今回のテーマは「喜びについての訓練」ですが、ある人はこのテーマを聞いて奇妙に思うかもしれません。「喜び」と「訓練」は、矛盾する、二つの事柄だと思っているからです。しかしこの二つは、少しも矛盾しません。喜ぶべきことをしっかり「喜び」、それを「いつも」しているためには「訓練」が必要なのです。

世間一般で言うところの「喜び」とは、非常に感覚的なものです。普通、人は良いことがあれば喜び、不幸な出来事があれば悲しむのです。確かにそれも間違いではありません。伝道者の書にも「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ(7:14)」とあります。しかしそれだけでは「いつも喜んでいる(Ⅰテサ5:26)」ことは出来ません。聖書が言うところの「喜び」にはもっと別の意味があるのです。それはどういう意味なのでしょうか?「~ではない」という形で説明してみましょう

聖書でいうところの「喜び」は、この地上における満足だけを意味しているのではありません。伝道者の書の著者であるソロモンは、人類史上もっとも栄華を極めた人物の一人でした(マタ6:29)。その彼が人生を振り返り残した言葉が「空の空すべては空(1:2)」「何とむなしいことか。それがいったい何になろう(2:1-2)」だったのです。神様は人に「永遠への思い(3:11)」を与えられたので、本来その「思い」が満たされない限り、深い「満足」と本当の「喜び」は経験できないはずなのです。しかしその健全な「むなしさ感」さえ麻痺してしまうこともあります。

イエス様のたとえ話における「金持ち」がそうでした。彼は言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ(ルカ15:19)」と。彼は二つの点で愚かでした。一つは、この世の物質だけで満足してしまい、その快楽に魂まで売ってしまったことです。お金で買えないものはないと考える人も同じです。そしてもう一つは、自分だけを喜ばせようとしていた点です。彼の「喜び」は、どこまでも俗物的で、自己中心的でした。

ある人は「私は違う」と言わんばかりに、「私はもっと精神的な満足を求めています」と言うかもしれません。確かに私達は、誰かを愛し、誰かから愛され、誰かのために生きる時、物質的な満足なんかより、もっと深い喜びを経験します。しかしその「喜び」でさえも完全ではありません。愛しても愛されないとき。尽くしても感謝をされないとき。そして、大切な人を失ってしまうとき。それでも私たちは「いつも喜んでいる」ことが出来るでしょうか?内面からの喜びは一時的です。

聖書は私たちに、無理な要求を突きつけているのでしょうか。いいえ違います。 そもそも聖書が言っている喜びとは、内からこみ上げる「感情的な喜び」ではなく、信仰の結果としての「意志的な喜び」なのです。この世にあっては試練に会うこともあります。愛する人を失ってしまうこともあります。期待が裏切られることもあります。その時は心が痛んで当然ですし、とても喜べません。納得できませんし、受け入れたくありません!しかしそれでも「神様の永遠という時の中」では、すべてが繋がっていることを信じるのです。天の御国においては、すべてが明らかにされることを信じるのです。感じなくても信じるのが、本当の喜びです。

それを「感謝の先取り」といいます。御国において味わう「喜び」を、この地上において、信仰によって味わうのです。この希望があなたを失望させることはありません。それを信じ、こおどりしたってよいのです!◆感情を無視しなさいということではありません。感情も大切です。しかしクリスチャンには、たとえ涙があっても、深い喜びがあるのです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、
いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた
喜びにおどっています。この(喜び)は、信仰の結果である!(Ⅰペテロ1:8-9)

第10回「遅延に対する訓練」

今回のテーマは「遅延の訓練」です。私達は自分の願い事を祈ります。しかし、それらは必ずしもすぐにかなえられるのではなく、思わぬ「遠回り」を強いられる場合があります。また時には、願った道が閉ざされ、全く違う道を通らされることもあります。神様にはすべてが可能なら、なぜそのようなことが起こるのでしょうか?そして「遅延の訓練」には、どんな意味が隠されているのでしょうか?

パウロほど、遅延の訓練を味わった人物はいません。パウロは、あの改心の出来事の後すぐ、ダマスコのアナニヤに会いに行き、祈ってもらい、目が見える様になりました。そして多くの人は、その後すぐにダマスコでの宣教活動に入ったと思っているのですが、そうではありません。パウロは奇跡を体験した者にありがちな、燃える情熱を内に秘めながらも、その時は、誰に相談することもなく、先輩の使徒に会いに行くこともなく、寂しいアラビヤの荒野に退いて行ったのです。

なぜパウロは荒野に退いたのでしょうか?そこで「伝道した」との記録は残っていませんから、おそらく彼はアラビヤの荒野でもう一度、あの光の中でお会いしたイエス様と向き合ったのでしょう。そして祈りの内にイエス様と格闘し、より砕かれ、彼の説教の中心である「恵みの福音」に目が開かれていったのです。つまりこの「遅延の訓練」があったからこそ、彼は後の奉仕のために整えられ「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者(ヤコ1:3-4)」とされたのでした。

エドマン博士はこう勧めます(p109~要約)。「あなたも『遅延の訓練』を受けているだろうか?活躍するために静まり、強められるために弱くなり、語るために黙し、健やかになるために病み、よき友情を得るためにしばし忘れ去られ、よい機会に恵まれるためになかなか方向が示されない、というような訓練を受けているだろうか?遅延という暗闇を通して、聖徒の忍耐を学びなさい。今は分からなくても、あなたは今、後に用意されている、神様の目的のために整えられているのです」。

人の目には回り道のように見えても、それが「神様の最善」への近道なのです。例えばパウロのマケドニヤ行きです。最初、パウロはアジヤに行く予定でいました。おそらく彼は、そのために綿密な計画を立てて、もちろん祈り込み、万全の支度を整えていたことでしょう。しかし直前になって「御霊に禁じられて」しまったのです!その時彼はどうしたでしょうか?あくまで自分の計画に従ったでしょうか?いいえ違います。彼はそれらをすべて捨てて、神様の御心に従ったのです。

あなたは「自分の近道」を選択し「最善への遠回り」をしていないでしょうか?主の御心に従うとき、私達の心は「いのちと平安(ロマ8:6)」に満たされます。しかし、主の御心に背いているときは、「自分の良心が互いに責め合ったり、弁明をしたり(2:15)」しているのです。クリスチャンであれば、開き直って、主の御心に背く人はいないでしょう。しかし「これだって主の御心」だと、神様に対して弁明してしまうことはあるのです。残念ながら、それは神の祝福への遠回りなのです。

時計で考える「近道」と、永遠の基準から見た「近道」とは違います。往々にして私達は、目先の「利益」や「効率」ばかりを求めてしまいます。そして「遅延の訓練」を軽んじてしまうのです。しかし本当な大切なのは「この世でどれだけ多くのことを成し遂げるか」ではなく「神様の前にどれだけ価値のあることを成し遂げるか」なのです。それを成し遂げるためには、遅延の訓練が必要なのです。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
人には、神の御業を、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道者の書3章11節

第9回「自己憐憫に対する訓練」

今回のテーマは「自己憐憫」、前回の続きです。「自己憐憫」には色々な危険な罠が潜んでいます。そしてそれに一度はまり込んでしまうと、なかなか這い上がってくることは出来ません。その罠とは何か?私たちは、どうしたらその罠に対処できるのでしょうか?(参照箇所 Ⅰサムエル21章1節―22章10節)

自己憐憫の最大の罠は「被害者意識」「ひがみ」です。聖書に登場するサウルは、見事に、その罠にはまってしまいました。そしてその「ひがみ根性」がますます人を遠ざけ、彼を孤独にしていったのです。彼は一国の王でありながら、「自分」の苦しみばかりに目を留め、部下も「自分」のために心を痛めるべきだと決め付け、それを要求していたのです。でも本当は、まず彼が王として、自分が部下の悩みに耳を傾け、その労をねぎらい、励まさなければなりませんでした。そう考えると、本当に孤独なのは部下の方でした。

自己憐憫は、私たちの心を、他人の「痛み」に対して鈍感にさせます。その時、私たちの心のアンテナは、自分の「痛み」にしか向けられていません。そして自分が一番悲しい、この痛みは誰にも分かるはずがないと決め付け、周囲に対して心を閉ざしてしまうのです。聖書にはこうあります「ただ彼は自分の肉の痛みを覚え、そのたましいは自分のために嘆くだけです(ヨブ14:22)」と。そうしていると、周りの人々も何も言えなくなり、段々あなたから遠ざかっていきます。そしてあなたはますます孤独になっていきます。

もしあなたが、そのアンテナを少しでも外に向けるなら、周りの人々も、色々な気持ちを抱えて生きていることに気が付くでしょう。主の御心は、あなたが自分の悲哀に暮れることではなく、周囲の人々と「ともに泣き、ともに喜ぶこと」です。クリスチャンは、たとえ試練の中でも、他人の「痛み」に対して、なおも心のアンテナを張り続けるのです。

人生の訓練の著者、エドマン博士は厳しくこう指摘します(p88~要約)。「自己憐憫は、人をますます哀れな人間にしてしまい、他の人に共感できない鈍感な心を生み出してしてしまいます。その人は、周りの人には『困った人だ』と思われているのに、それに気づかず、あたかも自分のことを重要人物であるかのように思い込み、皆が自分のために心を痛めるべきだと思い込んでいるのです。しかも、その無理な要求がかなえられないと、ますます悲哀に暮れるのです」。まさに悪循環です。

どうしたらこの自己憐憫の罠から抜け出せるのでしょうか?その秘訣はダビデの祈りにあります。彼はある時、命を狙われ、極度のストレスにさらされていました。そして状況はサウルと同じく、誰も彼の「たましいに気を配る者はいません(Psa142:4)」でした。でも彼は、その気持ちを、そのまま神様のところにもって行き「主に哀れみを請い、自分の嘆きを注ぎ出した」のです。これは、単なる自己憐憫とは違います。彼の周りには悲しみのオーラではなく、平安のオ-ラが漂っていました。すると不思議なことに、彼の周りには、いつも多くの人々が集まって来ました(142:7)。

もちろん信頼できる人と、悲しみを分かち合うことも大切です。しかし「神様からの哀れみ」ではなく「人からの哀れみ」ばかりを求めてしまうとき、私達は「ますます哀れな」人になってしまうのです。◆ダビデは、そんな時にこそ、まず主に、哀れみをこいました。しかしある人は思うかもしれません。「私は祈れないほど心と信仰が衰弱してしまうこともあるのです」と。確かにそうです。そんなときはどうしたらよいのでしょうか?◆そんな時は、その「祈れない寂しさを抱きしめて」その心を、そのまま主の前に注ぎだすことが出来るのです。その時、閉じかけた心の扉は、またほんの少し開かれ、その隙間から、やさしい光が差し込み、再び交わりに帰っていく勇気が与えられるのです。素晴らしい詩があります。題「寂しさを抱きしめて祈る」石井綿一「癒されない心の祈り」(教文館1998年)。最後にその一節を引用いたします。

朝に涙し 祈りつつ泣き暮れていました
時に 大声でわめくように号泣したい
何もかも投げ捨てて 誰の顔も見えない声も届かない
心の闇を さまよいたいと思いました

けれども どうすることもできない 孤独と不幸を
拒否して生きることはできないのだと
今は 思い定めています

祈れない寂しさを抱きしめて もう一度祈ります

この寂しさをエネルギーに変えて
もう一度 神様に祈りたいのです



・・・聖書の言葉・・・
私のたましいを、牢獄から連れ出し、
私があなたの御名に感謝するようにしてください。
正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。
あなたが私に良くしてくださるからです。」(詩篇142篇7節)

2007年10月4日木曜日

第8回「自己弁護に対する訓練」

いくらジェンダーフリー論者たちが叫ぼうとも、私達はそれぞれ、いつの間にか、何らかの「男らしさ」に関する基準を持っているものです。中でも多いのが「言い訳をしないこと」「男は黙って…」という基準ではないでしょうか。意外かもしれませんが、王に任ぜられた当初のサウルにはこの「男らしさ」がありました。

何かと反面教師とされてしまうサウルですが、彼にも、賞賛に値する良い面がありました。例えば、彼は良家の出で(9:1)、背格好(10:23)においても申し分ありませんでした。しかしそういったことを一切鼻にかけず、謙遜で(9:21)、王に選ばれたことが公言されると「荷物の間に隠れて」しまうほど「控えめな心」の持ち主でした。そして何といっても、彼には感心するほどの「沈黙力」がありました。

よこしまな者たちは、言いました。「この者(この若造)に、どうして我々が救えようか」と。そして、贈り物を持ってこず、サウルをはずかしめたのです。しかしその時、サウルはどうしたでしょうか?彼は何も言い返さず、ただ黙っていたのです。何と立派な態度でしょう!こういった局面で黙っているためには、よほどの強い心と、神様は全てご存知であるという、強い信頼感がなければなりません。

聖書にはこうあります。「人が若い時にくびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。十分そしりを受けよ。主はいつまでも見放してはおられない。主はその豊かな恵みによって、あわれんでくださる。(3:27-31)」と。サウルも最初はそうしていたのです。しかし残念なことに、彼の心は次第に神様から離れてしまいました。その兆候は何だったのでしょう。

二つの出来事がありました。一つはペリシテ人が攻め上ってきた時の事です。彼は民の動揺を静めるために、自分の手でいけにえを捧げてしまいました。それをサムエルに咎められると「だって民が」と弁解しました。またアマレク人との戦いにおいて聖絶すべきものをこっそり取っておいた時の事です。やはりサムエルに見つかると、彼はとっさに「主にいけにえを捧げるためです」と弁解したのです。

私たちも同じ事をしていないでしょうか?神様の御心ではないと知りつつも「この状況においてはしょうがない」と自分に言い訳をし、いとも簡単に信念を曲げてしまう。反対に自分の願望のためには「これも神様のため」「伝道のため」「栄光のため」と神様に言い訳をし、かたくなに自分の意志を押し通すのです。気をつけてください。その小さな自己弁護と妥協から大きな罪と後悔が生まれるのです!

私達はアダムとエバの時代から何も変わっていません。自分自身を正当化するためには、驚くほど「雄弁」になるのです。いやむしろ、「多弁」になるときほど気をつけたほうがよいでしょう。自分でも気付かないうちに理論武装し、何かを正当化しているかもしれません。◆大切なのは、もう一度、神様の前に「静まる」ことです。その時、本当に大切なものが見えてきます。一切の言い訳を捨てて、示された罪は素直に悔い改め、示される道なら大胆に進んで行きたいものです!

造られたもので、
神の前で隠れおおせるものは何一つなく、
神の目には、すべてが裸であり、
さらけ出されています。
私たちはこの神に対して弁明をするのです。
(ヘブル4章13節)

第7回「中傷に対する訓練」

今回のテーマは、「中傷に対する訓練」です。しかし「中傷」とは何のことでしょうか?辞書には「根拠の無い悪口などを言って、他人の名誉を傷つけること」と説明されています。もしかして自分に落ち度があり「悪口」や「陰口」を言われてしまうのなら、じっと唇をかんで、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶことも出来るかもしれません。しかし、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、私達はイエス様が言われるように、「喜びおどる」ことが出来るのでしょうか?

なかなか難しいでしょう。「中傷」されてしまうとき、私達はまず一生懸命「火消し」に奔走しようとするのです。話せば分かってもらえると信じて、自分の身の潔白を証明し、誤解を解こうと、涙ぐましい努力をするのです。しかしなかなかその気持ちは通じません。なぜなら単なる「噂」とは違い、「中傷」には始めから明らかな悪意が存在するので、こちらが騒ぐほど、実は相手の思う壺なのです。

そんな時「復讐心」がわいてきます。権力のある人であれば、力にものを言わせて、相手の口を封じたいと思うかもしれません。また現代では、権力のない人であっても、憂さ晴らしにメールやインタネットなどの力を借りて、相手にとって不利な情報をバラまいてしまうかもしれません。しかしそれらはどれも神様に喜ばれる方法ではありません!聖書にはこう書かれています。「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。復讐はわたしのすることである(ロマ12:19)」と。

ダビデも若い時には失敗しそうになりました。サウルに命を狙われ、心身の疲労もピークに達した頃、ほんの僅かばかりの食べ物を、資産家ナバルに求めたのです。しかしナバルは「ダビデとは一体何者だ?このごろは主人のところを脱走するどれが多い」と冷たく突っ返しました。怒ったダビデは、400人の部下を連れ、ナバルの首を取りに出かけました。しかし賢いアビガイルの必死のとりなしのゆえに、危うく「自分の手で復讐し」「無駄な血を流す」罪から守られたのです。

それから多くの苦難を経てダビデは変えられました。ある時、ナバルの時と同じように、いやもっと口汚く、シムイに罵られました。シムイは石を投げながら、息子アブシャロムに命を狙われているダビデを呪ったのです。当然、部下は「言ってあの首をはねさせてください」と願い出ました。しかしダビデは言いました。「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」と。

どうしてダビデはそういうことが出来たのでしょう?それは多くの苦難を経て、怒りや復讐心さえも「ゆだねる」ことを学んだからです。彼は詩篇の中でこう歌っています。「悪を行なう者に対して腹を立てるな。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して腹を立てるな。怒ることをやめ憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ」と。

中傷にあうとき、私たちがとるべき態度の最高の模範はイエス様です。イエス様は、ご自分には何の非もなかったにもかかわらず、一切弁明せず、ののしり返さず、全てを正しくさばかれる方にお任せになりました。そればかりか、自分を迫害する者のために祈られたのです。これこそ私たちが学ぶべき、中傷に対する訓練です。

愛する人たち。
自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
かえって、善をもって
悪に打ち勝ちなさい。
ローマ12章19、21節

第6回「晩年における訓練」

「白髪は栄光の冠(箴言16章31節)」といいますが、誰もが栄光に満ちた晩年を迎えるわけではありません。栄光に満ちた晩年もあれば、悲惨な晩年もあるのです。その違いはどこにあるのでしょうか?聖書より二人の人物を取り上げ、「人生の訓練」の著者、エドマン博士の言葉を引用しつつ、ともに学びましょう。

「悲惨な晩年」それはエリに見られます。彼は40年間、預言者として働いてきて、もう既に非常に歳をとっていました。主の栄光は彼から去り、主のことばはまれにしか与えられていませんでした。それでも彼は、その職務をずるずると続けなければなりませんでした。理由は色々あるでしょう。二人の息子が信仰から遠く離れてしまったことやサムエルがまだ幼すぎたことなど。しかし根本的には、彼自身がその歳になるまで、後継者の育成など、晩年の備えを全くしてこなかったからです。(サムエルは早くから、預言者学校を設立し、後継者を育成しました。)

エドマン博士はこう言います。「人生の日も傾く頃になると、活動も衰え責任も減少する。疲れを知らぬ30代、働き盛りの40代を過ぎると、思慮分別のある50代、気力の緩みを覚える70代の道にいたる。しかし中にはその現実を認めず、他人にもそう考えさせまいとして、気丈に振舞い、かなり前から全うすることの出来なくなっている自分の地位を、なおも固執しようと努めるのである。そうすることは自分にとっても周りの者にとっても悲しむべきことである(p60)」と。

「美しい心で手放し、晩年に備えることができないのは『もし、これを手放したら、自分は不必要な存在になってしまう』との恐れがあるからです(p63)」。嫁と姑にも同じことが言えるかもしれません。実はこの「恐れ」に勝利することこそ「栄光に満ちた晩年」への鍵なのです。神様は「あなたがたが、しらがになってもわたしは背負う。わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう」と言ってくださるお方です。この方へ信頼することによって、私達は「恐れ」から解放されます。

「栄光に満ちた晩年」それはヨシュアに見られます。神様は彼に言いました。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている」と。そしてヨシュアはその言葉に応え、新しい地へ出て行ったのです。あなたも、今までの地にしがみつこうとするのではなく、最後にもう一つ、何か新しい地に踏み出だすことは出来ないでしょうか?あなたにはまだその「力」が残されています。

人はいつから「老人」と呼ばれるのでしょう?それは新しいものに対する「好奇心」を失ったときからではないでしょうか? 反対に言えば、年は若くても「好奇心」を失っているならば、その人はもはや「老人」なのです。いつになっても「新しい主の御業」「新しい人間関係・出会い」「新しい奉仕」「新しいビジョン」に対してオープンでいたいものです。その人はいつまでも瑞々しく、若々しいのです!

そして本当に何も出来なくなるとき、私たちには、なおも残された奉仕があります。それは「祈り」です。それまでの人生、あまりにも忙しすぎて「祈り」に専念できなかったかもしれません。しかしこの「祈り」こそ、人生最後に残された「最高の奉仕」なのです。祈りに専念し、幼子イエスに出会ったシメオンとアンナ、彼らの白髪は、文字通り「栄光の冠」のごとく、ひかり輝いていたことでしょう!

また、アセル族のパヌエルの娘で
女預言者のアンナという人がいた。
この人は非常に年をとっていた。
彼女はやもめになり、八十四歳になっていた。
そして宮を離れず、
夜も昼も、断食と祈りをもって
神に仕えていた。
(ルカ2:23)

第5回「決断における訓練」

以前も私達は、同じテーマについて学んだことがありますが、もう一度改めて、このテーマについて学びたいと思います。それは、このテーマがそれほど大事なことだからです。もしかしたら、私達は目の前の決断が、取るに足らない小さなものだと感じているかもしれません。しかし私達は、もう二度とその決断の岐路に戻ってくることは出来ないし、結果次第で、明日は全く違ったものとなってしまうのです。人生に「ビデオの逆再生」はありません。この決断が大切なのです。

決断における、悪いお手本は「ロト」です。彼はアブラハムと別れて「右か左か」を選び取るとき、ただ「その土地が潤っているかどうか」を基準に選んでしまったのです。おそらく、ソドムとゴモラの悪い噂は、彼らの耳にも入っていたでしょう。その土地で子育をすることが、子供達の信仰形成上、どれほど悪影響を及ぼすかは容易に想像できたはずです。しかし彼はそんなことお構いなしで、ただ目に好ましいほうを選んだのです。その決断が、後に悲劇を招きました(19章)。

決断においては、主の栄光を基準にすべきです。カーナビをご存知でしょう。一度目的地を設定すると、どんなにわき道にそれても、その目的地へ連れ戻そうとするのです。クリスチャンの人生も似ています。私達の人生の目的は、クリスチャンになった瞬間から「自分の成功」ではなく「主の栄光」に設定されているのです。時にはわき道にそれてしまうこともあるでしょう。道を見失ってしまうこともあるでしょう。しかし、いつでも私達はその目的を求めて進んでいるのです。

しかし、事はそんなに単純ではありません。実際の人生は、カーナビよりもっと複雑です。聖書には「右に行くにも左に行くにも、あなたは耳の後ろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」と約束されていますが、いつでも「右か左か」はっきりと答えが示されるわけではありません。どの学校に進学すべきか、どこに就職するべきか、どこに入院する(させる)べきか、誰と結婚するべきか、私達は祈りつつも、手探りで進んでいかなくてはならない時だってあるのです。

ヨブはこう言いました。「ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、後ろに行っても、神を認めることができない。左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。しかし神は、私の行く道を知っておられる。神は、私を調べられる。私は金のように、出て来る。(23:8-10)」と。「右か左か」私たちには分かりません。しかし神様は、最善の道をご存知なのです。

つまり一番大切なのは、この「主」に導かれて一歩一歩あゆむ、ということです。イスラエルの民は40年間「火の柱」「雲の柱」に導かれて荒野を旅しました。そして、それなくしては一歩も前には進まなかったのです。「火」と「雲」とは聖書で「神の臨在」の象徴です。主と深く交わり、その臨在を感じつつ、一歩一歩主と共に歩んで行く、その毎日の積み重ねの先に「約束の地」が待っているのです。

世の人々は、占いなどによって、手っ取り早く「右か左か」を知ろうとします。しかしクリスチャンの信仰は、そんなインスタントなものではありません。おみくじのように聖書を読むのではなく、毎日、誠実に御言葉を心に蓄え、主に従っていく事が大切なのです。

あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。
(だから)、主の前に静まり、
耐え忍んで主を待て。
(詩篇37篇5,7節 要約)

2007年10月3日水曜日

第4回「暗黒における訓練」

誰も「私は絶対につまずかない」とは言えないし、もしそう思うなら、その人こそ自分の足をすくわれないように気をつける必要があります。ペテロがそのようなタイプの人間でしたが、彼は言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:31,33)」と。しかし、それほど自信満々であったペテロが、その後すぐにつまずいてしまったのです。

聖書にははっきりと「つまずきが起こるのは避けられない(ルカ17:1)」とあります。とはえ言え、やはり「つまずきを起こさせる者は忌まわしい」し、「わたし(イエス・キリスト)につまずかないものは幸い」なのです。私達は、人をつまずかせないようにするのはもちろんのこと、自分自身も、つまずいて、信仰の失格者となってしまわないように(Ⅰコリ9章27節)、常に気をつけなければなりません。

クリスチャンといえども「死の影の谷(詩篇23篇4節)」を歩くことはあります。それは、いつ果てるとも分からず、神が共におられないかのように思われる経験です。健康が損なわれ、友人からは見放され、悪口も言われ、日の光は暗く、夜はあまりにも長く、夜明けは永遠に到来しないかのように感じます。そしてついには疲れ果て、ヨブのように、一刻も早く墓石の下に憩いを得たいと思うような経験です。

そんな時、悪魔はこう追い討ちをかけます。「神は恵むことを忘れてしまったのだ」「お前のことなどかまっておられないのだ」「お前がこの暗黒の中にいるのは、神の御心から外れたからだ。神が人を暗黒に導かれるはずはない」「お前は神に従わなかったから捨てられたのだ」と。それは自分の心の声であったり、心無い人からの視線や、言葉であるかもしれません。それが私たちを更に苦しめます。

しかし、ヨブは最後の最後までつまずきませんでした!それどころか一連の試練を通して、更に信仰を深められたのです。確かにヨブは、試練の前から素晴らしい信仰を持っていました。どんな災いが降りかかってきても、「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白することが出来ました。しかし、まだ何かが欠けていました。

それは神様との生きた交わりです。交わりを欠いた意志や知識だけの信仰は、ヨブの友人たちのような冷たい信仰です。彼らは先祖から受け継いだ「聞きかじった宗教」を振りかざし、「君が何か罪を犯したから、こんな目に…」とヨブを責めました。そのような「浅い信仰理解」は、ヨブのような試練の中にいる人にとって何の助けにもならないばかりか、かえって余計なお世話となってしまいます。

ですがヨブは試練を通し、この神様のとの交わりを回復しました。その時、彼はこう言いました。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし今、この目であなたを見ました」と。何と試練を通し、ヨブは神様を再発見したのです。そして創造主の前で、自分は被造物に過ぎず、神様のなさることには間違いがないことを、理屈ぬきで信じられるようになったのです。◆この「暗黒における訓練」はヨブにとって「益」となりました。なぜなら、それが信仰によって、彼の「神様理解」に結び付けられたからです。試練の只中で、新たに神様に出会った者は、本当の意味で、人を生かし、慰める者とされるのです。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
ルカ22章32節

2007年7月24日火曜日

第3回「敢行の訓練」

子供の成長において大切なことは何でしょう?色々なことが言えると思いますが、中でも「達成感」を味わうことは、子供にとってとても重要です。ことわざにも「かわいい子には旅をさせよ」とありますが、ある程度の年齢になった子を持つ親は、何にでもうるさく口を挟み、何でもしてあげるのではなく、精神的なサポートはしっかりしつつも、時には思い切って任せ、子供が自分で「これをやり遂げた!」という達成感を味あわせるよう、導いてあげることが大切なのです。

信仰においても同じことが言えます。嫌なこと、辛いことから逃げてばかりいても、一向に信仰は成長しません。前回も学んだ様に、危険には、避けるべきものと、立ち向かうべきものとがありますが、立ち向かうべきものにはしっかり立ち向かい、それに対して「祈り」と「御言葉」によって勝利し、信仰の達成感を味わっていくとき、私たちと神様との結びつきはますます強固なものとなるのです。

しかし実際はそう簡単にはいきません。人生の旅路には様々な障害が横たわっているのです。イスラエルにおいてもそうでした。彼らは約束の地カナンを目指して荒野を旅していましたが、数々の困難を乗り越え、ようやくカナンの目と鼻の先まで来たとき、そこにはネフィリム人という巨人が住んでいたのです!彼らはそれを聞いてガッカリし、ヨシュアとカレブに怒りを燃やし、殺そうとしました。

本当の巨人は私達の心の中にも住んでいるのです。戦いにおいて、最も危険なのは、敵の中にではなく、味方の中に、恐怖におののく者がいることだと聞いたことがあります。同じように信仰の戦いにおいても、本当の敵は、試練そのものの中にあるのではなく、闘わずして白旗をあげてしまう、私達の心にあるのかもしれません。イスラエルは、早々に「さぁエジプトに帰ろう」と降参してしまいました。

そんな全会衆に向かい、ヨシュアとカレブは言いました!「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない」。敢行しようとする者、および、不可能を可能にする者は、巨人ではなく主を見上げる。その時私たちは、主よりの力を受け、なおも前進することが出来るのです!

3Dクリスチャンという言葉があるそうです。「だって」「でも」「どうせ」を口癖としているのです。私達の警戒心は、ヨシュアの声を聞いても「でも、もっと慎重に、検討してみよう」とか「神様だって、熱狂を嫌われる」と言うかもしれない。確かにそれは正しい。しかし慎重過ぎる者は、もっともらしい言い分けばかりをし、結局何も行動もせず、達成感も味わわず、信仰はいつまでも幼子のままなのです。

聖書の原則によれば、主の御業はいつ起こるのでしょう?それは、不可能の川の「水ぎわ」に足を浸すときであり、道がないところに思い切って足を踏み入れるときなのです。その時、川はせき止められ、道は開かれます。主は今日も言われます「雄々しくあれ、強くあれ」と。この主が、私たちと共におられるのです!

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。
恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、
あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(詩篇37:5)

第2回「危険に対する訓練」

人生には様々な「危険」がありますが、大きく分けて二つに分けることが出来ます。一つはなるべく「避けるべき危険」です。自分の不注意によって招いてしまう危険がそれに当りますが、不摂生からくる健康の危険や、無計画な借金による経済的な危険、また無謀な運転による生命の危険などです。これらは本来避けるべきですし、避けることの出来る危険です。身から出た錆を神様や悪魔のせいにしてはいけません。しかし人生には勇敢に「立ち向かうべき危険」もあるのです。

それは主の栄光のための「危険」です。ネヘミヤは、ペルシヤの王アルタシャスタの献酌官でした。何の不自由もなかったのです。しかし彼はエルサレムの悲惨なありさまを聞き、民がそしられていることを聞き、それは神様がそしられているも同然であると心を痛め「城壁再建」の大事業に乗り出したのです。隣国が黙っているはずがないことは分かっていました。しかしたとえ危険を冒してでも、彼は御名の栄光のために立ち上がらざるを得なかったのです(参 エステル4:13-14)。

主のために立ち上がるとき、主の敵も立ち上がります。聖書には、こう説明されています。「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです(ヨハネ17:14)」と。逆に言えば、主の御言葉に従わず、立ち上がるべきときにも、あぐらをかいたままでいたら、世からは憎まれないし、敵も立ち上がらないということです。しかしそれでは、本当の勝利も、平安も祝福もないのです。

敵は執拗(しつよう)に「どこかで会見しよう」「話し合おう」と誘ってきました。しかしその魂胆(こんたん)は何だったのしょう?エドマン博士はこう言います。「敵はもっともらしい理由をつけて『話し合いましょう』『意見を聞かせてください』と誘ってきます。しかしどんなに話し合い、説明しても無駄です。なぜなら彼らは最初から聞く耳を持っておらず、何とか自分のペースに持ち込み、相手を言い負かし、恥をかかせることしか考えていないからです。もし彼らが本当に相手の意見を知りたいと思っているのであれば、自分から聞きに来るはずである。(P23)」

その誘いに対するネヘミヤの返答は明快でした。彼は言いました「私は大工事をしているから下って行けない。私が工事をそのままにして、あなたがたのところへ下って行ったため、工事が止まるようなことがあってよいものだろうか(6:3)」私たちも同じです。毒々しい議論にノコノコ出て行くべきでありません!火に油を注いでしまいます。陰謀に対する最善の策は「無視」です。私達は自分の仕事に熱中しているべきであって、議論に夢中になるべきではありません(Ⅰテモ1:6)。

御名のための危険から逃げ出してはいけません。私達は危険の中でも、主への従順を貫く時に本当の自由を得るのです。救われたらからと言って、自分だけ天国に行くことにあぐらをかいている者は、もう既に命を失っています。本当の敵は、人を恐れて行動しない私達の中にあるのです。◆それと同時に、陰謀の危険からは、身を避けなさい!彼らに付き合っても、何の益もありません。不用意に関わるなら、飛んで火に入る夏の虫、自らにとんでもない災いを招いてしまいます。

私は大工事をしているから下って行けない。
私が工事をそのままにして、あなたがたのところへ下って行ったため、
工事が止まるようなことがあってよいものだろうか。(ネヘミヤ6:3)

愚かな議論…を避けなさい。それらは無益で、無駄なものです。(テトス3:9)

第1回 「訓練の重要性」

現代社会において「訓練」という言葉はまったく人気がなくなってしまいました。昔ながらの厳しい教育方は、人格の正しい形成をゆがめるという、進歩的な教育方の影響で行われなくなってしまいました。代わって子供の個性や自主ばかりが尊重され、親は子を従えるどころか、子に従い、振り回され、疲れきっているのです。厳しさが失われてた現代において、家庭の温かさは失われ、崩壊し、親の権威は失墜し、教師の指導力は軽んじられ、社会全体が傾き始めているのです。

何がおかしいのでしょうか?それは「人間観」が間違っているのです。先に紹介した進歩的な教育法とは、基本的人間が良いものであると捉え、なるべく生まれもった良いものを、そのまま引き出そうとしているのです。しかし良いことは言っているものの、大切な何かを見落としています。それは人間の罪です。聖書には、私たちはみな、生まれながら御怒りを受けるべき子であるといわれています(エペソ2:3)。人間にはこの罪があるから、時には厳しい訓練と教育が必要なのです。子供の自主性に任せていたら、その子はきっと、親の悩みとなるでしょう。

しかし人が人を懲らしめてはいけません。聖書には「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる(箴言13:24)」とありますが、同時に「父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい(エペソ6:4)」とも書かれています。親もまた子供と同じ罪人なのです。そういった謙遜さを持ちつつ、神を恐れ、決して自分本位に、感情的になって子供を戒めることないよう、慎重にならなければなりません。

本当の懲らしめは、主が与えられます。御言葉には「肉の父親は…自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして懲らしめる(ヘブル12:10)」とあります。神様は、私たちのことを最も良く知っておられる方です。その神様の凝らしめは、私たちに対する「まったき愛」から出ています。そして、もしそれに耐えるなら私たちは聖められ、「平安な義の実(ヘブル12:11)」を結ぶことが出来るのです。

また主の懲らしめは、受け取る者の心構えによって、益にも害にもなります。もし私たちが、人生の試練に会うとき、たとえ理解できなくても、神様の愛と摂理を、信仰によって認め、それを受け入れるなら、その懲らしめが「人生の訓練」となり、私達は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた者(ヤコブ1:4)」とされるのです。しかし、ただ神を恨み、神の愛を疑い、つぶやくなら、その試練は、私達の益にならないばかりか、私たちの心はどんどん神様から離れてしまうのです。

いよいよ始まりです。これから私達は少しずつ、神様がどのように私たちを訓練してくださるのか、学んでいきたいと思います。この学びを通して、今まで経験してきた「人生の訓練」の意味を発見し、もう一度整理することが出来ますように。そしてこれからの「人生の訓練」に備えることが出来ますように。祈りつつ。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、
かえって悲しく思われるものですが、
後になると、これによって訓練された人々に
平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12章11節)